立ち聞きweblog

待ち合わせで相手が遅れてる時とか、何故か眠れない夜とか、通勤や通学の電車とかで流し読みして下さい。

徹夜がこたえる

京都に移り住んでから半年に一度程度の割合で、ひっそりとだらっと開催されるしわよせ会。会員は3人で働く組織は別々ではあるが、皆が末端のスタッフであることから、結局皺寄せが来るのは末端の俺たちだよねと愚痴をこぼしたり、お互いの心の傷を舐め合って励まし合い、頑張って共に生きようと肩組んでお酒を飲む、簡単にいうとただの飲み会である。


先日行われたしわよせ会にて、もう徹夜はできないという話になった。確かに目的がないとやらないが、仕事で4時くらいまでなら起きてることもあるし、若い時ほど体力はないが、もちろん意識は朦朧とするだろうけど、そこまで辛い事もないだろうと思うのである。


こんな話をした数日後に、そもそもしたくもない徹夜のチャンスが訪れた。私にとって、損することはあっても得することはなく、1円の金にもならない、文字通り百害あって一利もない仕事を、断るタイミングを与えてもらえずグイグイと押し付けられた。どうでもいいことは後回し、面倒臭いことも後回し、面白いこと美味しいことだけ前倒しのスタンスなので、結局、今取り掛からないとさすがに無理というギリッギリの11時過ぎになってようやくパソコンを開き、ネクストバッターズボックスでガチガチに力が入った高校球児が力一杯素振りするように、私もウォーミングアップの代わりにネットして、ようやく身が入りだしたのは街も寝静まった夜中2時だった。


期限が午前9時、どうでもいい仕事だからこそ、人間の本質が見えてしまうものと、やや高まったテンションで駆け抜けるように仕事を終えたのが午前6時。やればできるし、今日休みだし、さておしまいとメールでデータを送って仕事完了。一服して濃いめのコーヒー飲んで、このまま起きていても良かったのだが、そんなに無理してもねえと、少しだけ横になると、次目を覚ましたのは翌日の朝だったのは、やはり徹夜が体にこたえるようになっているということだし、当分は規則正しい生活を心がけたいと思います。それでは。

 

おくらと不安

最近、週の半ば、水曜木曜あたりに決まって胃腸の調子が悪くなる。


冷え切った水飴の如く粘度の高い泥沼の中で船をこぐように、考え出すと気が遠くなるようなゴールめがけて、進んでいるのかいないのか、さりとてえっちらおっちら必死で漕いで、というサイクルで成り立つ一週間では、休みと休みの間にちょうど疲労が心身をチクチクでなくドスドスと刺激するのだろうか。今日も今日とて胃腸の調子がよろしくない。


よろしくないと言っても普通に生活するぶんにはそこまでの支障はなく、1日1回だった大きい方が、日に3回ほどに増えた程度で、冷や汗ダラダラでウンウン唸ることもないのだが、気を抜けないというか、特に出先ではもし今来たらと不安感がつきまとうのである。


話は逸れるが、おくらの季節である。子供の頃はよく食べたおくらも一人暮らしを始めてからは特に理由もなく遠ざかっており、嫁と住むようになった昨年あたりから、再び食卓に並ぶようになったのだが、おくらをスーパーでよく見かけた、昨年のちょうど今くらいの時期だったと思うのだが、その時もお腹をよく壊していたのを思い出した。10年20年経てば、見た目や性格が変わり、ついでに体質も変わっていておかしくはない。昔は跳べた跳び箱もきっと飛べなくなっただろうし、突風のイタズラによるラッキーなチラリも捉えられないほど動体視力も失ったし、知らぬうちにおくらを消化できない体となっていた。


そういえば昨年も嫁にそんな事を言っていたと思うのだが、毎日のようにおくらが出るわ、週末に強いお酒を勧めるわ、今年はやたらと保険の加入を勧めるわで、何とも言えないヒッシリと背中に張り付くような不安はきっと、嫁の私に対する将来の不安なのだろうと思うので、予期せぬ事態でお蔵入りしないよう、今夜は正露丸4粒飲んで眠るとします。それでは。

諦めと呆れ

くつくつと沸いたお湯に入れるだけで、香りと旨味が広がる美味しいお出汁ができる出汁パックをいただきました。休日の昼などに作るうどんのお出汁はお湯に醤油と味醂と顆粒のお出汁の素を溶いただけのそっけないものでして (あれも手軽で美味しいのですが)、素人の私としては強気と思える、まるで手が出ないお値段でお店に並んでいるこの出汁パックは、フンフンなるほどと、そこらによくある牛丼屋、バンバーガー屋の味に慣れた私の舌ですら、反応良好、ひと唸りもふた唸りもしてしまうほどでした。


例えば、今の私の怒りも出汁パックのようにお湯のようなものを媒体とし、出切ってしまったとしたら、スカッとした日々を送れていることでしょう。ここ2日間ではあるのですが、もはややり場のない怒りに、モヤモヤとした時間を過ごしているのです。


この怒りの発端は2日前、スーパーで買い物をしていた時のことです。ちょっと買いだめをしておこうと普段使わないガラガラで店内を周っていたのですが、ガラガラ同士、すれ違うのでいっぱいいっぱいの細い場所があり、必ずここを通らざるを得ないのです。


この日、この狭い通路にガラガラを斜めに置き、すぐ横に積まれたイチゴのパックをひっくり返しながら選んでいる子ブタのような、綺麗とは程遠い厚化粧をしたマダムが居ました。やっぱりマダムは凄いなぁと思いながら、斜めに停めてあったガラガラを通れるように通路に対して真っ直ぐにしたんですが、反対から来たお兄さんもすれ違えないので当然邪魔だったらしく、そのまま広い通路まで押して行ってしまいました。


それから30秒もせぬうちにその子ブタのマダムがイチゴを小脇に抱え、小走りに近寄って来て私の使っているガラガラを引っ張りながら、


ちょっとあんた、これ私のでしょ!


と周りにいた人全員が振り向くような音量で言って来ました。


違いますよ、あれじゃないんですか?


と子ブタのマダムが使っていただろうガラガラを指差してやると、


どうしてあんな所にあるのよ!


と睨みながら言われました。普通の人なら今頃、キャンプで子ブタの丸焼きを楽しんでいるところなんでしょうが、私は昔おばあちゃんに言われた、生きてれば辛い事が必ずあるけれど全部自分のためなのよ、辛い事を乗り越えて大人になるの。という短気だった私への温かい言葉を思い出していたので、怒りに震えながら、恐らく鬼のような形相をしながらもなんとか堪え、その場を後にしました。おばあちゃん、大人になったでしょと、今度報告に行こうとその時心に誓ったのでした。


それが2日前の出来事です。その時の怒りが100とすると、今は約120で、収まるどころか、ふつふつと膨らみ始めているのは、まだまだ心は子供だからだと思うし、考える事は無駄な時間だと思うので、子ブタのマダムの事は、本日を以って忘れようと思います。

 

怒りを吐き出したらなんだかお腹がすいたので、濃いめのお出汁のうどんをすすりながら眠りにつこうと思います。それでは。

 

なんかいいヤツだと思った

きっといいヤツなんだろうとその場の全員が思った。


今日も今日とて京都には観光客が溢れている。日本人だけでなく、韓国人や中国人のようなアジア人から、小学生くらいの女の子を小鳥の如く肩に乗せて歩いている大柄の黒人まで、何処もかしこも辺りを見渡せば観光客だらけである。


ゲストハウスと呼ばれる簡易宿所の数が増えているのは増えすぎた旅行客にゆっくり休んでもらおうという日本人の優しさなんかではなく、単に儲かるからと気づくのにそんなに時間はかからない。行政に関わる大人達が、増えて欲しくないのに1人でも多くの観光客を呼ぼうとするのは、街が潤うから、ただこれしか理由はないのだろう。


観光客増大の余波は、安さと早さだけが売りのうまくない蕎麦屋にまで及んでいて、箸の使えない外国人がグッド、ナイス、ワンダフルと私でも分かるような褒めちぎる単語を呟きながら、蕎麦を不器用にすすっていることも珍しくはない。


街の中心地から少し外れた小さなバーでも、外国人のお客さんは増えているようで、先日も白人男性が数人で飲みに来ていた。


英語ができるマスター曰くオーストラリア出身で、仕事仲間と来ているらしく、その日で京都は3日目で明日には博多へ向かうらしい。3日間で十分京都を堪能し、最終日くらいはゆっくり飲もうと、それでたまたま目に付いたお店に入ったようである。幸い、テキーラで肩組んでというノリには発展せず、終始静かにビールを嗜んでいた。


そのうちの一人がトイレに立ち、なかなか戻って来ず、ようやく戻って来たと思ったらトイレが流れないシットと頭抱えてやってきた。その時たまたま居合わせた工務店勤務のお客さんの応急処置で事なきを得たのではあるが、オーストラリア人は終始申し訳なさそうにまゆがへの字である。なぜに外国人はあれほど表情豊かなのだろうか。この世の終わりのような、今にも泣き出しそうな顔でソーリーソーリーと肩を落として店を後にする彼を見て、きっといいやつなんだなとみんなでほっこりできたので、次来た時にはビールの一杯でもおごってやろうと思います。思い出しただけでほっこりできたので、今夜はそうめんをひとすすりして眠ろうと思います。それでは。

行列に並ぶモチベーション

私は車がないと生活に困るような田舎の生まれで、外食するたびに長い行列に並ぶという習慣がない。都会に移り住んで早5年目、驚くような行列に遭遇することは度々あるが、その時の私の目的地が長蛇の列だったなら即目的地変更するし、そもそも仮に30分も並んでまで達成したいことなんてあるのだろうかとも思ってしまうのである。もちろん並ばなくてはいけない時は、大人しく前の人の後頭部を眺めてため息を吹きかけているわけだが、そもそもそんな時は免許の更新か駅のトイレくらいしか思いつかない。


何が言いたいかというと列の中での時間の潰し方がよくわからないのである。スマホや本を開いても落ち着いて見たり読んだりできるわけじゃなく、5分もしたら飽きて他に何かを求めて列から外れてしまうだろうし、よっぽどのモチベーションがない限り、ただただ前の人の後頭部を眺めていられない。もしも15分も並んでションベンが我慢できなくなったなら、ちょっとトイレへと列を離れたら後ろの人の目が気になってきっとそこにはもう戻れないだろうし、もしも、横入りに遭遇したらしっかり注意できるだろうかとも不安になってしまう。ただただストレスである。このストレスに対する見返りは相当なものでないと割には合わない。


噂で聞いたことしかないのだが、かつてはピザの注文を受けてから配達までに30分かかったら無料のようなサービスがあったらしい。例えばこのようなサービスを取り入れることはできないものだろうか。10分待ったら50円引き、20分待ったらドリンク1杯無料で、30分待ったら唐揚げ一品サービスで、1時間待ったらおめでとう本日全品半額です、というのはどうだろうか。


行列の先に何があるのか気になるものだし、行列が人を呼ぶこともあるだろう。お店にとって行列ができることはいい宣伝になるのだろうし、こんなサービスがあってもいいのではないかとも思うのだが、もし私が店長ならと考えると絶対しないよなぁとも思ったので、このお話はここでおしまいにして、列に並んでまで買った楽しみにしていたクリームパンを食べて眠るとします。それでは。

 

ボトル入りタブレット型のガムと人の図太さ

もうかれこれ10年以上も前になると思うのだが、彗星の如く現れたタブレット型のガムが板ガムからガムの主流にとって変わり、入れ物も板ガムの頃には考えられないボトル型のものが世に出回り始めた。初めて見た時の衝撃は今でも忘れない。こんなん食べきるのに半年かかるぞと恐怖にすら感じつつも、車に置いとけば眠くなっても安心だわと、コンビニで買って、すぐ車の中で蓋を開けると勢い良く飛び出す中身。半分は飛び散り、こんなもん、半月ももたねーわとロッテさんに悪態ついたのも今ではいい思い出である。


閑話休題、例えばである、ガムちょうだいと友人に言って、ボトルごと渡されたら、あなたならいくつもらうだろうか? 私は普通は1個、酔って気が大きくなった状態で2個、気を失う寸前のわけのわからぬ酩酊状態でもやっぱり2個である。すなわち多くて2個。とある友人は、ガムちょうだいからボトルを手に取り、粉チーズをパスタにかけるが如く、反対の手の平めがけてガラガラっと二振り、三振り、ごろろっと出て来た5個ほどのそれを柿ピーを頬張るかのようにそのまま口の中へ。その光景を見た時には自分の小ささを痛感してしまった。なんて羨ましいことか、もちろん一度にもらえるガムの個数ではない。その図太さにである。それこそが今の私に必要なものである。


今の会社の入社時に、文章書くのが好きであると履歴書の自己アピール欄に書いておくと、それは好都合だ、ホームページをリニューアルしたばかりなので、ブログや更新業務を中心となってやってくれと役員に言われ、ホームページ作成経験もあるし、文章を作るのも好きだしで、二つ返事でOKしたのである。それが入社して3ヶ月後には社外報の担当になり、ランクがアップしていると思いきや、年賀状のデザインの担当者となりで、広告関連の雑務を押し付けられているだけと気づいたのはつい最近のことである。今ではなぜか役員の間で私の肩書きは、コピーライター、イラストレーター、デザイナーとなっているらしい。


仮に私が、ガムを一度に5個もらうことができるなら、きっと勢いと威圧感が凄い役員たちに、コピーライターはともかくとして、決してイラストレーターやデザイナーではないんですよと、一言言えたかも知れない。先週の話であるが、その一言が言えないがため、今度は役員がプライベートでご贔屓にしているガールズバーのポスター作りを任されてしまって、さあ、大変である。締め切りが明日なのに、全く手をつけていないのは、仮にも了承してしまった以上それはダメな大人なので、もしかすると女の子のご褒美がいただけるかも知れないということをモチベーションにして、今夜は寝る間を惜しんでメントールが強めのガムを噛んで頑張りたいと思います。それでは。

寝違えとプロ意識

数ヶ月に一度程度であるが、恐らくはソファで寝たことによる寝違えによるのだろう背中の痛みに悩まされている。我慢できないほどの痛みでないにしろ、まずまずの痛みであり、コンビニで買い物をし、肩から下げたカバンから財布を出そうと少し体を捻ったところで、ウッフンと声が出てしまう程度の痛みと言えばわかっていただけるだろうか。聞こえていないふりをする店員さんの気づかいが、嬉しくも恥ずかしくもある。


(店員さん、もしかしてあなたも経験が…?


ええ、その通りです。私の場合は背中じゃなくて首ですがね。あの時は本当に大変でした。タバコを頼まれるたびにフンムッと声が漏れていたと思います。お弁当を温めるのもそうですね。できるなら裏でずっとドリンクの補充だけをしていたいと思っていました。でも仕事ですからそんなわがままは許されない。どれだけ辛くてもレジの前に立った以上、お客様の笑顔のために全力を尽くさなければなりません。ですので、さっきのウッフンはお気になさらないでください。恥ずかしがる必要はこれっぽっちもありません。もしかするとウッフンは多くの人にとっては笑いの対象になってしまうかもしれませんが、わたしにとっては忘れかけていた健康である今に感謝をしなければ、という神のお告げだと思っています。)


どうもありがとうございました。(お客様という名の神様)またお越し下さいませ。


だったらいいなあと思わずにはいられないほど恥ずかしかった。きっと顔も赤かったし、なんだか変な人だとも思われただろう、きっと私が帰った後でツイッターに変な人なうとつぶやかれているだろう。もうあのコンビニは極めて行きにくくはなったが、恥をかいても汗をかいても力強く生きていこうと決意した帰り道でした。少しだけ背中の痛みも心の痛みも落ち着いたので今夜はなるべく柔らかい場所を探して眠りにつこうと思います。それでは。