立ち聞きweblog

待ち合わせで相手が遅れてる時とか、何故か眠れない夜とか、通勤や通学の電車とかで流し読みして下さい。

コラム-おみくじに託す

占いはその場限りのエンターテイメントとして楽しんでいるのですが、ことおみくじに関しては割と真面目にその内容を受け止めます。例えば、南の方に吉と出たら引越し先を南で探しますし、金運がいいと出たなら少し無駄遣いだってするだろうし、健康に気をつけろと書かれていたら、うがいと手洗いを念入りにします。お正月にひいたおみくじは、私の中ではそこそこ重要なポジションに位置していて、大袈裟でなく、普段の行動の根拠になっていると思うのです。


早くに気がつくべきでした。今年は年始から風邪をひき、例年よりもかなり早い段階で花粉症と思われる鼻炎を発症。出かける日に限っていつも雨となると、それはおみくじの忠告を聞いていないからいまいち不調なのだと早く気がつけばよかったのです。


それに気づいてから、引いてないおみくじがずっと私の心に引っかかってはいたのですが、2月が過ぎ3月になった頃にはその思いも薄れ初めていました。そのうちタイミングを見計らってと後回し後回しにするうちに3月も半ばに差し掛かっていました。


伊勢神宮に行きたい。


おみくじのためにというわけではなく、それは前々から思っていたのですが、ちょっと時間に余裕ができたから思い切って旅行しようやということになり、なけなしの貯金はたいて伊勢海老を食べに行くことになりました。長寿の象徴で縁起物のエビを食べ、伊勢神宮でありがたいおみくじが引けて、お告げ通りに行動できれば今年はもう大丈夫でしょう。


当日、雨が降らずにホッとしたのも束の間、まれにみる強風がこの旅の先行きを暗示しているような気がしたのでした。


高速道路では「きょうふう」だけに「恐怖」を感じましたが、おかげでいつも以上に安全運転を意識出来たのが良かったと思います。ふいに訪れる、訓練の地震速報にもパニクることなく、サービスエリアに車を停め、一心不乱に震源地をネットで探し、訓練であると分かるまでに15分を要しただけで済みました。


着いたホテルはご飯もおいしく景色も綺麗、内風呂が露天風呂という私たちにとって贅沢の限りを尽くしたお部屋だったので、一晩中お風呂に浸かってやると意気込んだのですが、お部屋を堪能し尽くす前の9時、ふいに訪れる睡魔に隙を突かれ、気がつけば既に朝でした。


やっちまったと頭を抱えてもしょうがないので、朝風呂をゆっくり堪能し、ご飯を美味しくいただき、メインの伊勢神宮へ向かいました。当日は雲一つない晴天に感謝しつつ、伊勢神宮をゆっくり堪能し、のんびりと帰ってきたのが昨日。


明日からの1週間に備える本日なのですが、おみくじを引くのをすっかり忘れているのに今気づいて頭を抱えることとなったので、今年は多分だめな気がしています。


それでは。

コラム-カラメルの美味しい食べ方

カラメルの原料が砂糖だということは多くの人にとって周知の事実であるとしても、金沢カレーの黒に近い色は、隠し味に焦がしたカラメルを使っているからであると知っている人は意外と少ない。


辛さの対局にあるとされる甘さの代名詞、砂糖がカレーとハーモニーを奏でることは一生なく、辛い料理を代表するカレーにとって最も合わない調味料は砂糖だと思っていた。

 

もしも、初めて金沢カレーを食す人に、カラメル入りのカレーだと紹介するとどうだろう。10人のうち2人くらいは食べてもいないのにウンコを食べたようなしかめっ面をするのではないだろうか。私は変化球の効いた料理は食べないの、という食わず嫌いも中にはいるかも知れないが、実際に食べたら美味いのは間違いない。

 

出来上がったカレーに砂糖をトッピングしてもうまいはずはないが、砂糖を熱してカラメルにし、さらに熱してカラメルを焦がしてルーと一緒に煮詰めると、コクが出て旨味が増すとは、誰が思い付くだろうか。カラメルのポテンシャルの高さを見くびっていた、いや、気づいていないと言った方が正しいか。

 

ただプリンにかけるためだけのものだと思っていた。プリンのために生まれてプリンを引きたて、主役となることはほとんど無いと思っていたが、カレーの引き立て役にもなれたとは。主役にはなれぬが、名バイプレーヤーのような食材に目を向け、もっと感謝して評価してやるべきなのである。

 

そうすれば、もしかするとカレー好きの可愛い子なんかと絡めるかもしれませんしね。カラメルだけに。はい、お粗末様でした。

コラム-滑舌が悪いおじさんがオーナーのファミリーマートのバイトのおじさんにとっても憤る

聞き返すのもイヤになるほど絶望的に滑舌が悪いオーナーの、近所のファミリーマートに私は今とても憤っている。このオーナーの責任ではあると思うが、オーナー自身に怒っているのではない。この前の日曜日の昼3時まで入っていたバイトのおっさんに魂を込めた喝を入れたくて仕方がない。


20度を超える今年一番の暑さを迎えた日曜日、散歩の帰り道に寄ったそのお店のイートインスペースでアイスを食べようと私が提案し、嫁は快くそれをオーケーしてくれた。


私はソフトクリーム、嫁は底の深い、分かりやすく言えばパナップタイプのアイスを購入したにも関わらず、付けてくれたスプーンはスーパーカップ用の短いやつだった。すみませんが変えてもらえませんかと言うと、今度は柄は長いがコーヒゼリーを食べるためのプラスチックのやつを渡された。


他のお客も並んでいることだしこれでいいからと、それを受け取りイートインスペースにとぼとぼとやって来た嫁が、私の目にはあまりに不憫に写った。


おいクソおやじよ、アイスを食べたことがないなら教えてやろう。棒やコーンが付いたアイスにスプーンはいらない。カップのタイプはもれなくスプーンが必要となるんだ。しかも、冷凍庫から出したてのアイスは思った以上に固い。コーヒゼリー用のスプーンを刺そうとすると、折れるんだよ。勢いよく突き刺し、スーパーカップですら難儀しそうなほど柄が短くなったスプーンで、パナップタイプのアイスを少しずつ、溶かしながら食べる大人の女性を想像してごらんなさい。悲しすぎるだろうよ。それが家ならまだいい。ファミリーマートが提供する家族感、家庭感の全く無いイートインのスペースだったなら、それはもはやイジメに近くはないだろうか。


実際に嫁はその状況で食べる羽目になったんですけど。最後まできれいに平らげてたんですけど。


近くのコンビニが使えなくなるのは少しばかり手痛いし、Tポイントで非常にお世話になっているファミリーマートだからなおのこと。残念で仕方がないが、嫁の味わった屈辱を考えたなら、やれオニギリだやれカップラーメンだと、気の抜けた顔でヘラヘラ買い物をするわけにはいかない。第2第3の被害者が出ないことを願って私は無言の主張をすることにする。

コラム-花粉症と年齢は認めない方が本人のためなのか

いがらっぽい喉にかゆい目頭、通りの悪い鼻腔が気怠さを誘うが、風邪ではない。はいはい、花粉ですねと動じることもなく、薬を二箱準備した。まだまだこれからだからねと、花粉側からしたら軽いジャブで鼻先をコツンと小突いた程度だろう。年々確実に重症化する花粉症のせいで春が嫌いになりそうである。


最近左肩が上がらなくてという嫁に、しじゅ、まで言いかけてヤメた。


もう5年程前だろうか。花粉症を疑う症状が出始めた頃、認めたくはなかった。健康とタフさだけが取り柄の私から健康を奪うと、不健康なタフガイとなってしまう。冷たいホットコーヒー同様、間のない、つまりは間の抜けた人間になることを恐れ、とにかく否定した。これは花粉症じゃなく、体調を崩しているだけだ風邪をひいただけだと、気持ちだけは負けないように必死だった。


花粉症は認めないけど、風邪は認めるのね。


と、してやったり顔がムカつくある友人に言われて、すでに間抜けな男となっていたことに気付かされた。その日は泣いたが、それからというものは花粉症の薬を飲むようになり、症状の緩和に驚かされ、さっさと認めてしまえばもっと早く楽になれたのにと、栄養食品のCMのようなことを頭の中で再生している日々である。


ただ嫁の四十、いや、年齢からくる肩の不都合はまだ認めてはダメなのではなかろうか。少なくとも周りがどうこう言う立場にはない。問題は本人の中にだけある。旦那さんに喜んでいただけるようにと吟味して化粧品を選ぶ嫁に、40という数字は首元に刃物を突きつけるのと同じくらい無情な行為だ。数字なんて関係ないと周りが言うのは自由だが、意味を決めるのはやはり本人しかいない。


そっとしておいてあげようと四十肩という言葉をぐっと喉の奥深くに押し込んで、お風呂を洗いに立とうとした時、饅頭食べながら上がらないはずの左肩をグイングイン回しながらwiiを楽しむ嫁を見て、まだまだあんたは若い、そう思った春の夕暮れでした。


それでは。

コラム-猫が人間の心を操っている説

神が人間のステータスを作るとき、動物界において致命的なほどに低い運動能力としたなら、知能を高くするというところまではわかるのですが、最も知能の高い動物に、二足歩行可能な体と器用に道具を扱える手を与えるということに疑問を感じるのです。


なぜなら、地球上で人間は圧倒的な力を有することとなるのは想像するに容易く、動物界で力の均衡がとれなくなるからです。それはつまり、支配者の存在を許すことになり、地球が滅ぶ可能性は高くなります。そんなことを神がみすみす見逃すはずはありません。


もしも、私が神ならば、最も知能の高い動物は、翼を与えて空を支配させる訳にはいかないので、恐らく海中での生き物、つまりは海洋生物とすることになると思います。もしも陸で生活させるのであれば、せいぜい四つん這いがいい所です。


せいぜい猫のような。


しなやかな美しい身体と愛おしい鳴き声を与えられたはいいのですが、道具を使えない両手両足に、相手の命をとるには頼りない爪と牙、自己表現のための言葉も持ち合わせません。ですが、圧倒的な知能はあるとすれば、身を守るため最も強い生物に取り入れられようとするのが賢い方法なのではないでしょうか。


であれば、今の地球上で考えるとすると、圧倒的な強さを手に入れた人間に目を向けるでしょう。


ここからが本題ですが、人間に取り入れられた動物、つまりペットの主流と言えば今や猫です。なぜ猫がここまで人間を虜にできたのかと言うと、ネットや本など数多存在する恋愛マニュアルにもあるように、人間自身が考えた異性を落とす仕草がそのまま猫の仕草とぴったり当てはまることがあまりに多いのです。


例を一つとると、付かず離れずの距離感が相手を惹きつけるという仮説は、恋愛かけひきの基本中の基本ですが、猫ほどこれが上手い生き物は他にはいません。


私は猫アレルギーで、触ると涙と鼻水が止まらなくなります。猫好きにもかかわらずです。猫好きなのにこの仕打ちは、まるで割りに合わないと神に届けと言わんばかりに、天に向かって嘆いたこともありましたが、納得できる理由が見つかりました。それにこの理由が今回の本質に迫るものと考えられます。


「猫が人間の心を操っている説」


猫アレルギーってもしかしたら猫の仕業なんじゃ、ふと思って立てた仮説が、やっかいなことに完全な否定ができないのです。


まだまだ長くなりそうですし、この先は引くほどの反響があった時や、暇で暇でたまらない時にでも書こうと思います。


空想の域を脱しない説ではありますが、もしかするとと考え出すだけで、鼻水や涙が止まりません。遺伝子レベルで操作されていると考えざるを得ません。事実、この説を書き始めた昨日から、私は猫アレルギーの症状に悩まされているのです。


多分花粉でしょうけど。


それではまた。

コラム-猫が人間の心を操っている説〜前書きから概要まで〜

例えば、食パンとはんぺんの見分けがつかないほどに酔っばらったオヤジ達がエロ話で盛り上がる、酒とタバコの匂いが染み付いた明け方の狭いスナックで話すような話題ではありません。かといって、大学の図書館で文献を読み漁りながら議論する内容でも無いのですが、思い付いてしまったのだからしょうがありません。


屁とともに世に放たれたとてクソの役にも立たないのは明白なので、私の頭の中だけで消化してしまえばいいのですが、もしかすると、日本中、いや世界中を探せばこの説に賛同し、待ってましたと目を輝かせる将来が心配な少年の1人ぐらいはいるかもしれません。その1人のために、また、世の中は空前の猫ブームなので、かなり荒唐無稽な説ではありますが、発表させていだきます。それは、


猫が人間の心を操っている説


です。私は実家で猫を飼っていることもあり犬派よりも猫派ではあるのですが、だから猫は宇宙だ最強だと極度の愛猫家のようなことを言うつもりはありません。もしかしたらと仮説を立ててみたら、ネットや本で出回り数多存在するマニュアルに当てはまったのです。


まさか、そんなバカなと初めは思いました。だけども検証すればするほどどんどん当てはまってしまった仮説に次第に目を背けられなくなりました。先述しましたが、その内容はあまりに荒唐無稽で、吹けば抗うことなくこの世から消し飛ぶ程度のしようもない仮説だと言うことを頭の片隅に置いて、読み進めていただこうと思ったのですが、ここから本題となると、この立ち聞きweblogには似つかわしくないほど長くなりそうですし、明日も朝早いです。またブログのネタ不足も深刻ですので諸々の都合を考慮した結果、続きは明日ということにいたします。


それでは。

 

コラム-蜘蛛の糸

今の家に越して間もない頃、ピーナツよりも大きく落花生よりも小さい、アーモンドサイズのクモが出た。今から考えると、新聞か雑誌か無ければ紙類を丸めてスパーンでベランダから隣家とマンションの隙間にポイで済む話である。


だがどうしてか、その時は越して来たばかりの浮ついた気持ちが新築の持ち家とでも勘違いさせたのだろうか、はたまた小さな頃にアニメで見た芥川龍之介の、「蜘蛛の糸」を思い出していたのかはわからないが、スパーンせずに生かして逃すために四苦八苦した。


すぐに逃すことができるよう、まずは、一番近いベランダの窓を全開にした。次にクイックルワイパーを取り出し、蜘蛛を壁際まで追い込んでから、クイックルワイパーを蜘蛛の体に潜り込ませるように差し出して、先っぽに捕まらせるもコロリと落ちて、もう一度捕まらせるもスルリと逃げてを繰り返す蜘蛛に、そんなに我が家が好きなのか、わかるよその気持ちと愛着が湧きかけ、ニックネームを考え始めた矢先、ようやく安定した場所に乗せることができた。またいつ落とすかわからんし、カーペットの隙間やテレビボードの中などに逃げ込まれたら見失う可能性だってある。


怖いものである。アーモンドサイズのクモが我が家に潜んでいるのがわかっていたら夜もおちおち眠れない。右手にキンチョール、左手に丸めた雑誌を離せぬ日々を過ごさなければならんのは、それだけは勘弁いただきたい。


機は熟し時は満ちたが時間はない。タイミングも今しかない。とにかくベランダへ放り投げようと顔を上げると、祈るような表情をした嫁が開けた窓の真ん前で待機。


邪魔。


ためらった瞬間、また蜘蛛がコロリとフローリングに落ち素早く身を隠そうと壁際へ。なぜそこにと問うと、半分泣きそうな声で、だって見たかったから、見届けたかったからと。


我が子の巣立ちを優しく見守るかのような嫁の振る舞いにそれ以上の追求はできなかった。蜘蛛を逃す作戦はどうやら、すっぱいだー ったようです。それでは。