立ち聞きweblog

待ち合わせで相手が遅れてる時とか、何故か眠れない夜とか、通勤や通学の電車とかで流し読みして下さい。

雑記-台風に震災に、悲しみに暮れる暇もない

毎月のようにどこかで大きな災害が起こるのはこの小さな島国において避けられない運命なのでしょうか。なぜか不幸なことほど立て続けに起こります。

 


弁当食べようとしたら箸を忘れていたことに気づき、同僚から割り箸もらって割ろうとしたら割れると言うよりむしろ折れたと言った方が伝わりやすい、片方が10センチ程のアンバランスな箸になった。誰にもその不運を告げずにアンバランスにご飯をつまみあげようとしたなら、今度は長い方も折れた。手のひらサイズにすっぽりと収まる二本の割り箸で、今から楽しみにしていた飯を苦労しながら食べるのかと思うと悲しかったが、箸は見た目的にバランスがとれていた。

 


台風や地震で大変な時に何言ってんだバカヤロウとの叱咤を受けそうですが、それも仕方ないことだと思います。ただ、私が言いたいのは一生懸命頑張ろうとか、ポジティブになろうとか、そんなことじゃなく、今生きてることが全てだということ。無念にも亡くなった人がもし生きていけるとしたら、それはあなたの記憶の中だけだと思います。

 


伊坂幸太郎先生のお言葉をお借りするなら、人間、生きててなんぼだ。

雑記-台風の日に観光

普段は観光客で賑わうあの通りも、昼間から飲み屋のハシゴが楽しそうな立ち飲み屋の並ぶあの通りも、流石に昨日は人通りが少なかった。あれだけ注意喚起を促す、最強クラスの台風上陸のニュースをしつこいくらいにテレビで見たなら、誰だって家に閉じこもるに違いない。閉めてる店も多かった。

 


この状態で出歩く人の気が知れないと思うのだが、(そういや私も嫁の制止を聞き流し、仕事行ってるということは棚に上げて、)まだ理解できるのは、海外からの観光客。何ヶ月も前から予定立ててチケット取ってホテル予約して、さあ京都観光楽しもうという日に台風上陸。キャンセルは出来ないと思うんですよ。何週間も前から台風予想が出てたならいいが、それは難しいし、いやいや、そうは言ってもたった数時間雨風が強いだけでしょう、やり過ごしてその後観光するよ、となるのはよく分かる。現に夕方、高そうなゴツいカメラ持った外国人がチラホラしていたが、驚くことにそれに混じって明らかに観光だろうという日本人の若者も少なからずいた。

 


断じて批判をしている訳ではないとだけ前もって言っておくとして、この辺に最近は世代間のギャップを感じるのだが、よくよく考えてみたなら、台風が来てテンション上がり、危険だと言われても尚遊びの予定をキャンセルしなかったのは私の場合、せいぜい10代前半までだった。

 


危険顧みず遊びに精を出す若者を見ると、考えられんと親心に近い怒りを感じると同時に羨ましくもある。遠い昔に忘れた、後先考えない勢いのようなものは忘れてはいけないもののような気がする。だからと言って昨日の台風のような日に観光するのは、やはりどうかと思うが。
 

雑記-倍嬉しい休み方

目が覚めたのは朝6時になろうかといういつもより30分も早い時間だった。理由は小鳥のさえずりが聞こえたわけでも、ジョギングを始めたからでもなく、尿意によるものに他ならないが、そのついでにスマホを確認した。昨晩、待てど暮らせど会社から本日は危険なので全員休みだという知らせが来ず、流石に朝までにはラインのグループで流れてきているに違いないと眩しい光に目をシバシバさせながらチェックしたが、確認できず。

 


ああ、今日仕事行くのか…危険を顧みず、吹けば消えるような給料のために仕事行くのかと、深いため息を吐き、再び入ったベッドの中で出勤のために、寝起きでぼんやりと膨れ上がった気をキュッキュッと少しずつ引き締めながら、小中学の頃を思い出していた。あの頃は9月10月になると毎日、台風来いそれるな直撃しろ、と不謹慎なことを空に祈っていた。もちろん休校を願ってのことだが、人の本質は今も昔もさほど変わらぬようで、流石に台風来い来い、雨風降らせ、なんてことは思えないにしろ、直撃するなら交通機関止めるレベルで、会社行けなくても文句言われないレベルでお願い、くらいは心のどこかで思っている。

 


願っても叶わず、なるようにしかならないのは十分わかっているが、気付けば神に仏に祈るのは何故だろう。暇なのか、寂しいのか、それとも何かにすがりたいだけなのか、天に祈って叶ってしまえばだれもこんなに苦労してないのにどうして人は私はこうして祈り願うのだろうか。休暇届を出せば叶うのはわかっているが、そうじゃない。私の欲しい休みはサプライズ的な休みだ。早起きして重い体を引きずって会社行って、今日は休みなんだと言われたなら、来て損したわー、とか、言っといてよねー、とか不満たらたら迷惑顔の一つもするが、それでもサプライズ的な休みがいい。なぜなら、休みだとわかっているより、倍嬉しいからです。
 

雑記-初めて包丁を握った日

まだ右も左も、それこそ上も下も分からぬ頃から包丁は危ない、火は危ないと保育園でも学校でも家でも、脳に刷り込むように教えられ、その頃は約束事としてキッチンに一人で入ってはいけないとされていた。ある日親の帰りの遅い夕方、一人キッチンに入り見様見真似でキュウリを切った。思ったよりも上手く切れたし、指は切らなかった。それに塩を振って空腹を満たしたあの日、大人の決めた約束事を破った。守れなかったのではなく、守らなかったあの日、確かに少しだけ大人になった。

 


それから年月が経ち、包丁の刃の部分を指の腹で滑らせてみて血を滲ませたり、油引いたフライパンを熱し過ぎて火が噴いたり、やるな、注意しろということを興味本位で破り恐ろしい思いをしたことも成長の糧となっている。

 


コンビニのイートインスペースでボスの缶コーヒーを飲んでいると、奥の席でアイスを食べ、生意気にもシルバーのアクセサリーを首からぶら下げた中学生くらいの二人の男子が、夏休みの宿題なんてまだ出していないし、ルールは破るためにあるみたいなことを話しているのが聞こえてきた。大いに結構だと思う。それくらいとんがっているくらいが将来有望だと微笑ましく聞いていたが、それぞれの母親らしい女性が帰るよと声を掛けたなら、ちょっと待ってとそそくさとゴミをゴミ箱に捨てて小走りで出て行く二人の背中はまだまだ小さかった。


 

雑記-暮れなずむ9月2日の日曜日

まだまだ予断を許さぬ暑さは続いているものの、35度を超える日は週間予報では見当たらず、峠をようやく超えたようだ。多分もう夏の終わりである。

 


夏が終われば次はあっという間に冬で、今年の秋は短かったなどと毎年同じような愁う話をしていたらすぐに年末、年が明けるのだ。今年もよろしくなんて何年かに一度も会わぬ友人に、だけども年始の挨拶だけをメールでパパっと済ませていたなら気付けば四月、新年度の始まりと思えばすぐに平成が終わる。で、何だかんだまた夏、秋、冬、春と繰り返していく。

 


来年は冷夏だったらいいなぁと不謹慎とも取られかねないことを、ボスの缶コーヒー片手に近所の公園のベンチで物憂げに、風に揺らぐ木々の葉を眺めていたら声を掛けられた。

 


暑いなあ。

 


目の端に犬のリードを持った上品そうなおば様を捉えた。え、嘘でしょ、何で話しかけてくるのよと困惑しながらも、これも近所付き合いの一環か、と思いながら答えた。

 


ええ、まだまだ暑いですね。

 


せやけども、だいぶんとマシにはなってきたねえ。

 


ええ、多少はマシですかね。

 


うちの子(犬のこと)は暑くても寒くても雨降りでも気にせんと時間になると散歩行こうって吠えはんねん 笑

 


そんなもんなんですかね、犬はね…

 


最近、日が傾いてくると蚊が多くてかなんわ。

 


ああ…そうですか…
(いつまで続くのか、どうして名も知らぬ他人にこうまで馴れ馴れしいのだろう。しかも話題に詰まって変な間とかできてるし。無理に話そうとしなくていいのに。どうしようかな、帰ろうかな、でも今ベンチ立つと気分悪いだろうしなあ。もう、あっち行ってくれないかなあ…)

 


いつもおおきに。ほな、また寄ってってや。よろしく。

 


え、ええ、また。

 


どうやら誰かと間違えていたようである。結構長い間話していたが、一体誰と間違えたのか、途中で気付かなかったのだろうか。返答したことで相手に恥をかかせたのではないだろうか。かと言って無視するのもなあ。出ない答えに頭を悩ませ、今度会った時にはあるいは自分から話しかけてみるのもと、できもしないことを考えていたら、日曜日の日が暮れなずんだので、これにておしまい。
 

雑記-歩きスマホ、自転車スマホから不公平が生まれる

世の中不公平である。そんなもんなのよ、と場末の飲み屋で明け方、ママに言われたなら、そのまま突っ伏して寝てしまいそうである。あれほど歩きスマホや自転車スマホで事故が多発しているというのに、誰もやめようとしないどころかむしろ増えているように思うのは私だけではないはずである。不公平だなと思うわけよ。

 


この前も自転車乗ってる時、ふらふらっと若い男子の自転車スマホが前から来たんだわー。勘というか予測ができたのよー。あ、こいつスマホに意識ほとんど持っていかれてんな、たぶんぶつかる直前まで気付かんやつだわーって。だからとっさに道を譲るようにすっと右に寄ったわけ。したら、後ろにチャリおばちゃんがいて、ベルですわ。チリン♪ じゃなく、ジャリジャリジャリジャリ! って。火事のベルぐらいの勢いで鳴らすわけ。思わず自転車停めて、おばちゃんに先に行ってもらって、すんません、って言ったんだわ。おばちゃんイラッとした仏頂面だったけど、軽く私に会釈してくれたわけ。後ろ確認せず急に進路変えられたらそりゃベルくらい鳴らすわな、って自分の中で小さな反省してふと周り見ると、若い自転車スマホボーイはもういないのよ。多分原因は自分だとは1ミリも思わぬまま過ぎ去って行ったと思う。

 


不公平だなって思うのよ。ベル鳴らされると気持ちよくなれる少し変わった特性があれば別だが、あんまり気持ちの良いものではない。私は事故を未然に防ごうとしただけで、まあ結果的に別の事故を生みそうにはなったけど、良かれと思ったことで誰かの怒りを買うとか、嫌な思いするとか、何で俺がって落ち込むし、この落ち込みとか怒りの感情って世に蔓延する不公平だって思うのよ。

 


不公平だって感じるってことは社会の制度が間違っているわけで、ならば、例えばハワイと同じく歩きスマホをしたやつは罰金で、自転車スマホしたやつは乾いた音のなる力一杯のビンタをされても文句は言えないっていう条例くらいできてもいいと思うんだわ。

 


とりあえずやり場のない怒りはグッと飲み込む。だから抱きしめてくれまでとは言わないけれど、可愛いコンビニのスタッフさんが手を添えてお釣りを渡してくれてもいいように思うのに、お会計をスタッフもお客も楽になるナナコを持ってたらそれもしてもらえないのな。世の中不公平だと思うんだわ。
 

雑記-電子書籍と裸一貫

人は裸一貫で生まれて裸一貫で死んでいくというが、詰まる所、何も身につけないことが普通の状態、最も人間らしいとされるべきなのだろう。ならばなるべく物を持たずを常日頃から心がけるのが正解。となれば、最低限必要な物は、と考えたなら、最低限度の衣食住が備わっていることのみである。それがあれば怪我したり病気したり危険な動物や人に襲われたり、命が危険に晒されるリスクはグンと減る。

 


ただ、ずっと家にとどまっているわけにはいかない。ご飯を作るためには食材を買う必要があるし、買い物するためにはお金がいる。お金を稼ぐためには仕事をしなければならない。仕事をするということは息抜きの日が重要になる。息抜きの日はそれはそれでずっと家で寝ているだけでは息抜きができているとは言えず、何か趣味のようなものを持った方が心の健康のためにも良しとされる。

 


私にとって趣味と言えるものの一つに読書があるが、これについて言わせて欲しい。洒落たランチの半分ほどのお金を払えば、もしかしたなら、生涯何度も読み返せる本と出会えるかも知れない。翼くんはボールは友達と顔面ブロックしながら言っていたが、本は財産。私の死んだおじいちゃんから教わった。だからという訳ではないが、私は本が好きなのだが、最近、電子書籍が気になる。

 


ずっと本をスマホタブレット、パソコンで読むなんてと食わず嫌いしてきたが、昨今の漫画アプリの台頭はスマホで本を読むことへの抵抗感が随分となくなった。書いてて思い出したが、初めて太宰治走れメロスを全部読んだのは、青空文庫というアプリでだった。まんまと、まんまと術中にハマっている。本が売れないから電子書籍に力を入れ始めた本業界の術中にハマっている。知らぬうちにスマホで本を読むことへの抵抗感が無くなっている。

 


電子書籍かあ。好きな本を待ち時間に、旅行先で、夜寝る前に…手のひらより少し大きいくらいの電話でそれが可能になるとか、ほとんど夢の世界。よっしゃやってみるかと、軽い気持ちで今晩寝る前に初めてみよう。それに納得できたなら今度はコンビニや自販機の支払いを電話でできるようにして…ああ、夢が広がる。手ぶらが近づく。裸一貫がまた遠くなる。ロマンを感じるハイテクも悪くない。