立ち聞きweblog

待ち合わせで相手が遅れてる時とか、何故か眠れない夜とか、通勤や通学の電車とかで流し読みして下さい。

臭みがなさすぎて

臭みについてここまで考えたことはなかったかも知れない。

臭みは苦味や渋味などと同じく、多くの場合、食事で得られる“おいしい”の邪魔をし、感想を聞かれた時、困った末に、“クセがある”とあいまいな表現でごまかされて嫌われることも多い。

コーヒーやお茶はクセを楽しむものでもあるし、苦味や渋味の奥にある旨みや違いがわかる人は、流石だなという目で見られる事もあり、必要悪と言えるのではなかろうか。

おそらくは嫌いな食べ物を挙げた時の理由で常に上位に位置するのが、今回テーマにあげた臭みである。学校一の美人で勉強、スポーツが万能で、性格も良く、男女問わず人気がありモテモテなのが香りだとすると、体育館の裏でタバコを吸っては、喧嘩して、誰にも心開かず仲良くならずに忌み嫌われているのが香りの双子の弟、臭みと言ったところだろうか。

オシャレなカフェで飲む紅茶の香り、採れたてのグレープフルーツが醸し出すのは香り、和食の命であるお出汁から立ち昇るのは香り。腐りかけの食材の臭み、嫌いな人にとってはパクチーの臭み、好きな人にはパクチーの香り。ざっと、香り、臭みの例を挙げるだけでもポジティブ・ネガティヴではっきりと分けることができる。

私の出身は日本有数の美味しいお魚が食べる事ができる地域なのだが、京都に移り住んで、同じ日本なのにこんなにも違うのかと思ったのが、生のお魚である。京都は好きだし、和食の本当の美味しさは京都で知ったし、ちょっと値がはるお店でもそれ以上の価値があったと満足できるお店は数知れずあることもわかっている。だが、無礼を承知で述べさせてもらうが、安いお店の生のお魚は論外、お魚が美味しいとされる人気のお店でも可もなく不可もなくで、もちろん満足行く生のお魚が食べられるお店もあるが、それはごく少数派である。

京都市は海が遠く、魚を運ぶのに時間がかかってしまい、鮮度を追い求めるのには、やはり限界があるために致し方ないためであるが、鮮度を失ったお魚を口に運ぶときのその臭みがどうしてもおいしいという言葉を遠ざけてしまう。悪気はないのに、少し自己主張をしただけで忌み嫌われてしまうと、人気者の姉のように好かれなければ、それはグレてしまうというものである。

だが、京都に住み始めて三年強、初めてこの臭みに光が当たるのを私は見た。サラリーマンで言うと定年間近の、小さな洋食屋をやっている夫婦が悲しい運命の臭みに手を差し伸べていた。

ランチのハンバーグ定食を美味しく平らげた後の世間話で、私の出身が石川県だと告げると、そこから話が広がった。この夫婦は何度か能登にドライブに行ったり、過去に雇っていたバイトが石川出身だったりと、何かと縁があるらしい。当然お魚が美味しいという話になるのだが、マスターが、

魚美味いけど、臭みがなさすぎて白身魚がどれも同じに感じんねん。

臭みにより魚の個体を識別できる、臭みが魚の特徴になっていたか、なるほどなるほど。まさかお刺身の天敵である臭みがそんな仕事をしていたとは。無ければ無いほどいいと思っていたものが、必要な人には必要な事もある。魚だけに目からウロコだった。

臭みも必要悪のカテゴリーに放り込んだところで、なんだかすっきりできたことだし、今夜も風邪をひかぬよう暖かくして眠るとします。それでは。