立ち聞きweblog

待ち合わせで相手が遅れてる時とか、何故か眠れない夜とか、通勤や通学の電車とかで流し読みして下さい。

ギャンブルと人と器

腕に覚えがないわけじゃないし、最後のレースで半ばヤケクソ、帰りの電車賃だけを残し、適当に賭けた2000円が40000円になったその日に1人、少し高めの真空パックしてあるタイプのソーセージを本数を気にせず豪快に沸騰した湯に入れ、ボイルしてパンパンになったそれをあてに、発泡酒ではなくプレミアムモルツを勝利の美酒として味わい、深夜遅くまでニヤニヤと酔いしれた事もあったのは、懐かしい思い出である。


老後をはじめとする将来のこと、もっと言うならば明日のご飯代のことなど微塵も考えずにとにかくお金を突っ込んでいた…などと言うことはさすがになく、良いように言うと安定的、悪いようにいうとつまらない男なのである。いつかどこかでギリギリアウトな、つまりは身の丈を超えて明日食べるのもままならない、下手すると人生詰むぞこれレベルの金額を、馬か自転車か船か、なんでもいいが一点張りしてみたい気持ちもある。本にもなっているのだが、ある大手の製紙会社の元社長がカジノで会社の金を含めて100億溶かしたと聞いてとんでもないな、こんな人間にはなりたくないと思うと同時に本を手にとっていた。やっていることは許されたことではないし、普通なら人が数十人から数百人死んでいてもおかしくないレベルであるが、スケールが違いすぎてよくわからず、憧れてすらしてしまうのである。


私なら1万負ければ、あぁ、服買って美味しいもの食べれたじゃないのと二晩は落ち込むし、3万負けたら安いお酒で1週間は現実から逃げ、10万も負けると1ヶ月は味覚を失うだろう。ギャンブルは人の器を計るのに最も適しているのではとも思うのであるが、昨日お店で買ったスニーカーが20%オフでネットで売っていたのを知り、半日も笑えない精神状態になってしまうようでは、まだまだギャンブルを語るには器もお金も足りんなと思ったので、カジノができるまでにその舞台に上がりたいけど無理だろうなぁと現実と妄想の間で揺れながら眠るとします。それでは。