偽物と本物の見分けはつきにくい
誓いを立てては破り、立てては破りしていると、いい加減神や仏も呆れて願いを叶えるどころか聞く耳すら持たなくなる。ほとんどの人はこれに当てはまるのではないだろうか。その点私はいざという時のために、誓いや願いは、ごくごくたまにしかしない。
そのたまにと言うのはお腹の調子が悪い時に他ならない。お腹を壊し下からも上からも出るものはなくなったが、それでも治まらぬ腹痛にどうしようもなくトイレに座っている時、無意識で祈っていることがある。神へか仏へかはわからぬが、とにかくごめんなさい、お願いします、を心から何度も何度も繰り返し唱えていることは半年に一度くらいならある。
酔い過ぎた時もそう。胃の中のものを全部出せども、治まらぬ吐き気に胃袋丸ごと飛び出すんじゃないかという程、トイレでえずいている時にも、訳もわからず何かにごめんなさい、もうしませんを繰り返すことがある。もうしませんと言って繰り返してはいるのだが、どうやらまだ私はトイレの神様には幾度もお願いしているようである。トイレといえど神は神、何度も同じ過ちを繰り返すのはきっと良くないし、都合のいい時にだけ神を頼るのはもっとよくない。けれどもお金持ちになりたいや、恋愛が成就しますようにという欲望丸出しのおこがましい願いではないので、いざという時の祈りは通じるのではないかと思っている。
私の会社には懇意にしている議員さんがいる。この前の選挙でも社内でその候補者のビラが配られていたのだが、とある社員さんはそのビラを受け取るや否やゴミ箱へダンク。よっぽど嫌いなのかなと思いきや、こんなもん寄越すな、根っからの支持者やねんと。…本当の支持者を見た気がしたし、かっこいいとすら思った。
遠い昔キリシタンをあぶり出すためキリストや聖母マリアの絵を踏ませたという。俗に言う踏み絵である。本当の信者であるなら躊躇いもなく踏んだのではないだろうか。踏めないとキリスト教信者であるとされキリスト教から遠ざけられてしまうし、踏んでその先隠れてでも祈りを捧げるのが本当の信仰だったのではと思ってしまう。
目に見えるものが全てではないし、見えない部分が神とか仏なのではと言いたかったが時間もなくなってきたので、今夜はこのあたりで。それでは。