立ち聞きweblog

待ち合わせで相手が遅れてる時とか、何故か眠れない夜とか、通勤や通学の電車とかで流し読みして下さい。

捨てて得て消えるもの

家のそばに小汚い食堂がある。店の前には長年のチリやホコリがこべりついたショーケースに、歴史を感じさせる変色したサンプルが、これまた色褪せて値段が読み取りにくい値札と一緒に、おせじにもセンスがあるとは言えない並べ方で、なぜだか鍋の蓋や重ねた茶碗と共に配置されている。


中を覗くと愛想のいい年取ったおじいさんと、その息子夫婦と思しきおじさんおばさんが、ゆったりとした雰囲気で、常連と和気あいあいとした雰囲気の中、注文された料理を作り運び並べている。この食堂は老舗の和菓子屋さんと豆腐屋さんくらいしか印象に残らない、寂れた商店街の中にある。小汚い食堂を含めてこの商店街が私は大好きなのだ。


愛情をこめてのそれと言えば何でも許されるとは思ってはいないし、大変失礼な言い方なのは分かっている。だけども普通ならマイナスに取られるそれらの表現がしっくりくるし、「好き」や「愛」という言葉はそれらのマイナスイメージを逆のプラスイメージへと変えてしまうから、「ズルい」表現方法なのだろう。


ただ、私は一つ大きな罪を犯した。これだけのことを言っているのに、その食堂にはまだ行ったことはない。


話は変わるが、今京都の建築中のほとんどがゲストハウスであると言っても言い過ぎではない。海外観光客に向けたゲストハウスと言う商売はバカでも儲かると聞いたことがある。とあるゲストハウスの運営方法の実態は、イギリス人が京町家を買い取って、韓国人にゲストハウスの店長をさせ、中国人に店番(バイト)させる。これで賃貸として貸し出すよりも何割りも多いお金がオーナーのイギリス人に舞い込むというのだから困ったものである。


私のお昼間のお仕事の関係上、時折嫌でも耳に入ってくるのが、近隣住民からの騒音、ゴミ、喫煙などのマナーなどの苦情である。文化の違いがそうさせるのか、人間性のせいなのかはわからないが、上手にやれる人でないと、クレームの嵐である。


ゲストハウスのおかげで寂れた商店街に観光客の姿が見られるようになったのは事実としてあるし、前述した食堂に観光客が座っているのもたまに見るし、年々徐々に件数を減らしつつある京町家がゲストハウスにより復活しつつあるのも事実。ただ、京都に住みたいという人へ貸家として貸し出ししている日本人オーナーのことを考えると、ゲストハウスと言うのは何か違う文化な気がしてならないのである。


たまに真面目なことを考えるとお腹が空いたので、あの食堂を眺めつつおしゃれなうどん屋で美味しいうどんでもすするとします。それでは。