立ち聞きweblog

待ち合わせで相手が遅れてる時とか、何故か眠れない夜とか、通勤や通学の電車とかで流し読みして下さい。

コラム-花粉症と年齢は認めない方が本人のためなのか

いがらっぽい喉にかゆい目頭、通りの悪い鼻腔が気怠さを誘うが、風邪ではない。はいはい、花粉ですねと動じることもなく、薬を二箱準備した。まだまだこれからだからねと、花粉側からしたら軽いジャブで鼻先をコツンと小突いた程度だろう。年々確実に重症化する花粉症のせいで春が嫌いになりそうである。


最近左肩が上がらなくてという嫁に、しじゅ、まで言いかけてヤメた。


もう5年程前だろうか。花粉症を疑う症状が出始めた頃、認めたくはなかった。健康とタフさだけが取り柄の私から健康を奪うと、不健康なタフガイとなってしまう。冷たいホットコーヒー同様、間のない、つまりは間の抜けた人間になることを恐れ、とにかく否定した。これは花粉症じゃなく、体調を崩しているだけだ風邪をひいただけだと、気持ちだけは負けないように必死だった。


花粉症は認めないけど、風邪は認めるのね。


と、してやったり顔がムカつくある友人に言われて、すでに間抜けな男となっていたことに気付かされた。その日は泣いたが、それからというものは花粉症の薬を飲むようになり、症状の緩和に驚かされ、さっさと認めてしまえばもっと早く楽になれたのにと、栄養食品のCMのようなことを頭の中で再生している日々である。


ただ嫁の四十、いや、年齢からくる肩の不都合はまだ認めてはダメなのではなかろうか。少なくとも周りがどうこう言う立場にはない。問題は本人の中にだけある。旦那さんに喜んでいただけるようにと吟味して化粧品を選ぶ嫁に、40という数字は首元に刃物を突きつけるのと同じくらい無情な行為だ。数字なんて関係ないと周りが言うのは自由だが、意味を決めるのはやはり本人しかいない。


そっとしておいてあげようと四十肩という言葉をぐっと喉の奥深くに押し込んで、お風呂を洗いに立とうとした時、饅頭食べながら上がらないはずの左肩をグイングイン回しながらwiiを楽しむ嫁を見て、まだまだあんたは若い、そう思った春の夕暮れでした。


それでは。