立ち聞きweblog

待ち合わせで相手が遅れてる時とか、何故か眠れない夜とか、通勤や通学の電車とかで流し読みして下さい。

雑記-絵葉書を出す機会

保育園の時の青木先生からお祝いいただいた。お返しどうする?


母親から届いたメールに戸惑いを隠せなかった。30年余り記憶を遡り、うんうん唸って絞り出してようやく名前までは思い出せた。顔も当時の年齢もいつ担任になったのか、そもそも担任ではなかったのか。名前以外の記憶に黒いモヤがかかっているようである。なんで? という疑問を返信メールに書こうとしたがヤメ、こっちから送っとく、そう返信した。きっとクエスチョンのメールを送ると、電話が掛かってくる。ちょうどユーチューブで何を見ようか悩んでいた大事なタイミングだった。要領の得ない長話を聞いているほどこちとら暇じゃないのだ。子供の知らんところで親が年賀状程度のやりとりをずっとしていた、くらいのお話だろう。


たとえ頭のメモリーからデリートしていた人からのお祝いと言えど、貰いっぱなしというわけにはいかない。今はわざわざ店頭に出向かぬとも、ネットからピッピッピの三拍子で熨斗付き名入りでお返しが送れる便利な時代。すぐに手配してホッと胸を撫で下ろし、またユーチューブで何を見ようか心置きなく悩んでいたところ、今度は横から嫁にお礼の電話しなくていいのと言われた。確かに、お礼する以上、物のやりとり以上に大事なのが、言葉でありがとうを伝えることだと、マナー知らずの私でも想像に容易い。


確かに大切やねと、電話番号を入力仕掛けて手が止まった。一体何を話すべきだろうか。30年前、恋に落ちたが離れ離れになった2人なら、頰を赤らめ額をジンワリと滲ませ、方向定まらぬ震える指先で発信ボタンを押すのも悪くは無いが、知り合いと言えども他人と言えなくもないほど薄まった間柄、人見知り、喋りの苦手な私には少々ハードルが高すぎないか。お祝いありがとうではそっけないし、かと言って京都に来た経緯、嫁との馴れ初めなど話し始めると、45分は軽く超える。内容も覚悟も決まらぬまま途方にくれていると、また嫁が絵葉書でも送ったらと助け舟を出してくれた。


そうそう、それだ、それ、それがいいんじゃないですか、粋じゃないですか、とさっそく京都っぽい絵葉書を近くの本屋で買ってきた。さあ一言挨拶だけ書いたし、後は出すだけと、ようやくユーチューブに戻れたのが一週間前の日曜日だったが、葉書はまだ手元。投函したが、切手を貼り忘れていて戻って来たという完全なるミステイク。大切なのは気持ちだからとは言うけれど、伝わるはずの想いの濃さが時間で薄まらないとも限らない。今更電話などできるわけもなし、遅くなってすみません。葉書に一言付け足しての投函したので、ここはどうにか穏便に。