立ち聞きweblog

待ち合わせで相手が遅れてる時とか、何故か眠れない夜とか、通勤や通学の電車とかで流し読みして下さい。

雑記-「ボタン」のありがたみをもっと知るべき

何日か前のブログでも言ったが、今我が家にネット環境がない。だからと言って生活できなくなるわけではないし、今すぐにインターネットをしなければならないこれと言った理由もない。いざとなれば大抵のことはスマホで事足りるのだが、それでもネットが繋がっていないだけでパソコンを開く回数も劇的に減るわけで、パソコンでiPhoneの同期をしている私としてはどこか落ち着かない、知らない人からタダでもらった20年落ちの軽トラで高速に乗るような心地がしている。


前のマンションは良かった。家賃の中にインターネット使用料が含まれていた。気になる回線速度はサクサクいかないことも正直あったが、それでもストレスを感じるほどではなかったし、気づけば自由にネットを使えるのが当たり前の体になっていたのだろう。この時代において、あって当たり前のネット一つにどうしてここまで苦労しなければならんのか。それもこれも、京都では大手で名の知れたあの不動産会社の虚偽ともとれる設備の表記のせいである。本当は凄く怒っているし名前を出して非難したい気持ちも山々だがそれはまたの機会にするとして、今日話たいのは、バスの魅力についてである。


故郷石川でバスに乗るのは何年に一度も無かったが、ここ京都では月に何度もバスに乗る。蛇口を捻れば水が出るかの如くバス停にいればバスが来る。しかも近場なら、10分も待てば目的地に向かうバスが少なくとも1本、多ければ2本ほぼ同時に来ることもある。なんて便利な。使えば使うほどに膨らみやがて愛へと変化しようとしているバスの一番の魅力と言えばやはり降りる時に押す、あのボタンだろう。


消火栓の非常ボタン、ファミレスのボタン同様、どうしてあのボタンはあんなにも押したくなるのか。ボタンを見たら思わず人差し指を伸ばしたくなるのは、幼い頃からボタンは押すものとして擦り込まれ続けた結果、習慣となってしまったのだろうか。考えてみたら自然界にボタンを押してどうこうなるものはない。ならばやはり人間の発明が遺伝子レベルまで浸透しているため、と。…詰まる所、もしやボタンは人類の大発明なのではなかろうか。


これからはボタンを見たら名も顔もしらぬ発明家を敬いながら大切に扱いたいものだ。先週乗ったバスのように、キツめのブレーキを堪えようと踏ん張った拍子に肘で降りますボタンを押してしまったがために、真夏の炎天下で停留所を二つ分歩く羽目になったのは、当たり前に思うなよというボタンからの忠告だったのかもしれない。