立ち聞きweblog

待ち合わせで相手が遅れてる時とか、何故か眠れない夜とか、通勤や通学の電車とかで流し読みして下さい。

雑記-悲しい話 気付かれずに消える才能が儚い

たとえば、長い間一つのコミニティーの中にいると、気の合わない人とぶつかることもあれば、不満も溜まることもある。そういうものだし、それは受け止め自分の中で消化するだけ。

 


一から作り上げた自分のコミニティーでないなら、そこは人が作った場所。ただ間借りさせてもらっているだけの立場だし、だから嫌になったならそこを辞めたら良いだけだ。少なくとも私のスタンスはこれだなと、30過ぎてようやくそう思えるようになった。同時に「居場所は自分で作るもの」という意味を履き違えていたなあと気付けたのは自身のようやく固まってきたスタイル形成の意味でも大きい。その代わり「やりたい事しかやりたくない」が芯の部分に居座ることとなったが、それもまあその通りだし、ダメ男というレッテルを貼られたとしても、甘んじてそれを受け入れたいところ。

 


私の職場にYという人物がいる。全社員が30人に満たない小さな会社ではあるが、会長、専務を除けば歴が最も長く、高校卒業から40年近くこの会社に勤めているらしい。聞いた話によると、昔からずっとそのまま、全く変わらぬ人らしいが、他の社員はこのYという人物を、「独特な人」「変な人」と表現することが多い。

 


この表現に私は凄くデコボコとした固いものが背中に当たるような違和感を感じている。おそらくそれは、大人として、苦手や嫌いとは言えず、結果「独特」や「変」という表現に逃げているようにしか思えないからだ。実際、遠回しにクレームというか悪口に近いその人への陰口を何度も聞いたことがあるし、その場にたまたま居合わせた時に、ねえ、そうでしょ? あんたもそう思うだろ? なあ、そう思うだろうよ、と問い詰めるように意見を強要されたことはある。その時は嫌ならあんたが辞めたらいいと心の中で呟きながら、笑って答えをはぐらかした。

 


面倒な事務作業は全て周りに押し付けて、契約書類の類もハンコを押して印紙を貼った後に間違ってたとか平気で言うし、いつもヤフーのニュースを読んでいるし、会議に出す資料の数字も間違っているのは日常茶飯事。仕事をしていないように思われてもしょうがない。

 


独特な人、変な人と言いたくなる気持ちはわかるが、誤解しないで欲しい。私はこの人は尊敬し見習うべき人物だと思っている。確かに初めは苦手だったし嫌いだった。だが、話すうちにこのYという人物の思慮深さに驚かされることが多い。適当さ加減が表立ってはいるが、誰よりも深く広い知識があるのを誰も気づいていないのだろうか。たまに口にする意見がどれだけ芯を喰っているか知らないのだろうか。

 


いつのまにか会社の広報の全てが私に回ってくるようになっていたし、好きな仕事だからそれは積極的に取り組んでもいる。それもあり、社員のほとんど全員にいろんな話を聞いてきたが、このYという人の話だけは格別。誰も追いつけない領域にあることだけは確かである。表面上を取り繕ったペラい人物ではないということを気付かぬ周りが残念でならない。

 


このYという才能が、誰にも気付かれずに何も残さぬまま忘れ去られる運命にあるのが凄く悲しい。