褒められるより
一説には親離れするために必要な要素だという思春期。30をとうに超えても尚、親に冷たく当たってしまうのは思春期の名残からなのだろうか。その思春期のややこしい精神状態のままで大人の階段を登っている頃からだったと思うのだが、褒められるとこそばくて恥ずかしくて頬を赤らめモジモジと、どのようにやり過ごせばいいのか分からなくなることがある。
褒められるより労われたい。
考えてみて欲しい、急な仕事で三日三晩徹夜とまでは言わずとも、納期が間近に迫ってギリギリいっぱい。ミッチミチのスケジュールを乗り越えた瞬間、流石だねで乾杯か、ゆっくり休んでねで枕を渡されるのはどちらが嬉しいだろうか。私は間違いなく後者である。
やったぞ、やりきったぞと天に向かってガッツポーズの一つも決めるかもしれないが、それでも勝利の美酒よりもふかふかの布団の方が嬉しいし、例えそれが煎餅布団であっても文句はない。ガチガチの肩とバキバキの腰にはそれが一番のご褒美であると、私は思うのである…と、ここまで語っといて何だが、ただゆっくり休みたいだけだった、ごめんなさい。
2m先で煎餅布団以上ふかふかの布団未満が私を呼ぶので、今夜は何も考えず誰にも邪魔されずゆっくり眠るとします。
P.S.褒められたいより労われたいは本当です。
それでは。
過去の行い
点か線か面かで問われれば、大は小を兼ねるとでも言いますか、面を選択したくはなる。立って良し、座って良し、寝て良し、安定と安心をお届けできるのは面で、バランスさえ取れれば、眠る事は出来ないにしても、体を休める事くらいなら出来るかもしれないのが線、座る寝るはまず無理で、立つ事すらも危ぶまれるのが点であるなら、きっと修行は点なのだろう。
いつからか、身に良くない事が起こると、過去の行いを振り返り反省するようになった。コンビニで買ったばかりのソフトクリームの上半分だけをゴロンと落とすおじさんを見て腹抱えて笑った事、歩きながらのスマホでそのまま花壇に入って行った少年に危ないよと声をかけなかった事、それらが回り回って身に降りかかっているのだと思ってしまう。
普段から、慎ましく、なるべく目立たずをモットーに生きてはいるが、これらの行い、心構えが原因で、知らずに人を傷つけているのではなかろうか。そう考えるとザワザワして落ち着かない。今も過去からの刺客に狙われている。
飛びかかってくるわけでもなく、噛むでもなく、ただ右に左に駆け回りながら私に向かって吠え続けている仔犬がいる。飼い主が目を離した隙に逃げ出したか、セブンコーヒーを買って公園のベンチでホッとしているだけなのに、私が一体何をしたと言うのか。
心の中ですら悪態はついていないし、すれ違いざまにかわいいっぽい女子の顔をさりげなく確認する事も今日はなかった。それなのになぜこの仔犬は私に向かって吠え続けるのだろう。いっそのこと噛みついてくれれば、あるいは頭を撫でてあげれば、スキンシップを通して私に悪意がないと伝わるかも、心が通じ合う気がするのだが、一定の距離を保ちつつ、敵意と牙をむき出しに唸り、吠えている。
心当たりが全く無い私は、やはり過去の行動を原因にしたくなるし、心を鍛え直すにはやはり修行が必要なんだろうと思うので、今夜は点は点でも枕と毛布と布団の3点セットで眠るとします。それでは。
見た目にこだわるのも
メガネをかけているから頭が良いとは限らないし、デブだからと言ってバック転ができないとも限らない。Tシャツジーパンで高座に上がっての落語はいくら面白くてもピリッとはしないし、タキシードでコーヒーを注がれると2割り増しで美味しく感じてしまうこともあるかもしれない。
見た目は重要である。人を外見で判断するなとは言うけれど、それは確かにそうなのだが、見た目もやはり重要ではなかろうか。
お腹がポッコリ出ている人には重要な試合のサイドバックは任せられない。長友や内田のように縦横無尽に走り切れるとは思えないし、1番手が骨折、2番手が肉離れ、3番手がインフルエンザときてもチャンスはまだまだ巡って来ない。4番手が股関節痛、5番手が…とその前にベンチにすら、選考会で名前すらあがらない。トレーニング不足が見た目に出ている、お腹ポッコリではまずサイドバックは無理なのである。それならば走れそうな痩せを置いておいた方が相手にとって多少は、プレッシャーをかけれるもので、ポッコリは論外、即退場、生卵投げられて試合終了であるが、それは事サッカーに関してである。
一歩スタジアムの外に出て、ポッコリお腹がハンバーガーを作っていると、頼んでみようかなという気にもなるし、ポッコリだらけが並ぶ焼肉屋さんは量、味共に◎なのだろうと勝手に決めつけてしまう。
ポッコリお腹も使いようによっては人の役に立つに違いない、自信を持てば、活きる舞台に立てればいいよと、着れなくなったやや高めのスーツがそう語ってくれている気がするが、きっとそれは気のせいで、来月出席する結婚式に着ていく服がないし、ジョギングしようと思ったが、今夜はもう遅いのでジョギングした気になって眠るとします。それでは。
少年時代の床屋では
小学校の時に行っていた、どこにでもある昔ながらの床屋では、どう頼んでも帰る時には角刈りにされた。
いつも母親に1500円だったか2000円だったかを持たされて、行ってこい、予約してあると、ぐいぐい背中を押されて重い足取りで向かった記憶が蘇る。それが低学年の頃なら足取りもまだ軽かったが、高学年になると女子を意識しだし、少しは髪を伸ばしてオシャレがしたくなった。角刈りではオシャレのオの字も出てこないし、厳しかった校則のギリギリを攻めるような、憧れの少しアバンギャルドでワイルドで、女子の話題の的となるような髪型は、ブラジルどころじゃなく、月より遠い叶わぬ夢だった。
髪を伸ばしたいと世間話がてら遠回しに伝えてみても角刈り、裾を少し切るだけでいいのでとお願いしても角刈り、今日は長めでとしつこく強めに頼んで、ようやく少し長めの角刈りとなった時には、見えない所で大人の力が働いていると感じたし、一世一代の長い戦いに終止符がうたれ、初めての挫折を味わった気がした。
それはそれは髪を切るのが嫌で嫌で、次の日学校に行くのも嫌になるのは当然の論理であることを、世のお母ちゃん達に伝えたい。散髪は嫌だと駄々をこね、お腹が痛い、学校休みたいと言うその子は、周りの異性の目を気にしている、おしゃれに目覚めたのだなと温かく見守ってやって欲しいと思う。今は生きることで精一杯な戦後ではなく、不景気だと嘆くことが出来るくらい豊かな時代になった。子供だから見た目なんてどうでもいいと言うのは論外、短ければそれで良しとし、本人の意向を無視した「とにかく短く」で予約してしまうのは、あまりにもかわいそうな、悲惨な事をしてることに気づいてほしいと切に願う。
本来なら今回はクラシックシェービングについて語りたかったのだが、クラシックシェービングとの初めての出会いはその床屋で、当時は産毛を剃っていただけだったと思うのだが、その瞬間だけは好きだったなと考えているうちに話が髭剃りだけに ソレ てしまったので、この話はまた今度にするとして、今夜はキンキンに冷えたビール片手にうたた寝したいと思います。それでは。
帯に短し襷にも短し
毎月の支払いにいつの頃かヤフーが含まれ、それが当たり前となっている。電気代やガス代、携帯代に比べたらそれはいい意味で比較にならないくらいの金額で、私の性格にぴったりな、ほったらかしになるくらいの額だからタチが悪い。
初めは映画見たりオークションとかやりたいと思ったし、月あたりの金額もこのくらいなら致命傷にはならない、逆に有効活用してやるよくらいに思っていたのだが、大きいのは志だけで、当時、他人からの評価が怖くて仕方なかった私は、1度たりともオークションに手は出さなかった。
そもそも何故こんな話かというと、知り合いとひょんな事からヤフオクの話になり、月に掛けてる4百ウン十円もバカにはならんよねが始まりだった。私の口座からは毎月1000円程引かれているような気がする。
ヤフーってそんなに安かったっけ、あれ、俺2倍払ってない、はたまたよくある抱き合わせ的なアレで無駄なやつにも登録してしまっているのか、どうなのよどうなのよと、朝からソワソワ落ち着かない。
人の2倍支払っている事になれば、無駄になる額も当然2倍。キャバクラやクラブであれば、その分ちやほやもてはやされ、アフター行けるの行けないの、なんて楽しい楽しいプロレスが始まるのだが、ヤフーに関してはちやほやは付いてこない。ただただ一企業の発展に貢献しただけである。
足枷になって生活にハリが出るというほどの額でもないが、月に一度の外食でデザートが一品多く食べれるくらいの額となるとやはり、放ってはおけないレベルなのだが、これは一体どうやったら内訳が見れるのだろうか。そもそもパスワードって何だっけ、なんてもたもたしてると夜も更けそうなので、とりあえずあきらめて放っておくとして、今夜もひたすら眠るとしましょう。それでは。
自己責任論
例えば不倫や暴力のように人を傷付ける行為は断じて反対であるが、競馬やパチンコのようなギャンブル、覚せい剤や大麻のようなドラッグは、自己責任で完結できるのであれば、別にやっても構わないと私は思う。
法律については別に詳しくはないが、慎ましくをモットーにしていれば、ほとんど捕まる事はないし、学校で習った通りに過ごしていれば模範生なんて言われる事もあったりもする。詰まる所、やはり人への迷惑な行為が日本では悪しとされてしまうのである。当然と言えば当然ではあるが。
多くの人がそうだと思うのだが、アルコールが入ると人に迷惑をかけてしまう可能性が大きく高まる。お酒の場くらいはお互い様、過ぎた迷惑でなければ、終わりが楽しければそれで良しではあるが、急にもらった二連休前夜となれば深酒に次ぐ深酒で、軽妙なトークに花を咲かせようとも、帰った後の罰が怖い。
少し早く起きて、大阪に行く予定がバツ、いつもよりいいランチをする予定も二日酔いでバツ、そもそも起きるのがお昼過ぎとなれば、もはや自己責任で完結なんてできるわけもなく、起きた時にはバツが悪いが、それより何より彼女の機嫌が当然悪い。
これは一体どんな罰が待っているのかと思えば、罰は罰でも私の罰はマジックで顔に大きくバツである。
さて、二日酔いの日はいつもより眠気が早い事ですし、自分の戒めの意味の罰として、息苦しいほどピチピチのスウェットで今夜は眠るとします。それでは。
コーヒー豆。後引く苦味
飲み会の次の日はだいたい二日酔いで、眠りも浅く、ベッドから出てもソファで横になってダラダラ半日、下手すりゃそのまま一日中なんてこともざらではないのだが、その日はどこか違っていた。
清々しい朝だなんて思いながらスッキリと起き、いつもは遠慮するお酒の次の日の朝ごはんも美味しく頂いたし、苦味の強めなコーヒーも残さずに飲んだ。さらに休日ということもあり、体調も良好とあらば自然とテンションは上がり調子である。
普段は人見知りな性格から、道など訪ねられぬよう細心の注意を払って伏し目がちで町を歩くのだが、この日は違い、なんでも俺に聞いて来いと、ブラジルまでの道程くらいなら案内してやるよと、そんな気分ではあった。
人間気が大きくなっている時こそ、慎重に行動すべきである。
私のいつも買いに行く、気さくな店主とややテンションが低めな奥さんのやっている喫茶店のコーヒー豆は、程よい苦味とコク、ほのかに感じる酸味のバランスが絶妙なのである。その店の豆の買い置きが無くなり幾日か経ち、久々にあの味を求めて買いに行くと、この日はたまたま周年ということもあり、豆を安く売っていた。なんてラッキーなんだ、早起きは三文の得とはこのことかと、ホクホクした表情で店の門をくぐったのだった。
いつも対応してくれるご主人は喫茶の方で忙しいらしく、呼ぶと奥さんが出てきてくれた。いつもはそのまま豆を買って終わり、奥さんの接客からも、それが最も客としてベストな対応である事は間違いないのであるが、その時はやはり何処かおかしかった。朝起きてから初めて人と接する今が最も細心の注意を払うべきだった。
何を思ったか、周年という事もあり、いつもテンションがローな、おそらくコミュニケーションをそこまで望んでない奥さんに対して出た言葉が、お誕生日おめでとうございます、だった。対する奥さんは、抑揚のほとんどない、あぁ、ありがとうございます。
早々に恥ずかしさと後悔が押し寄せる中、いつもより多く豆を買ったのは、気が大きくなって調子にのっていたからか、私の周年を祝いたいという気持ちか、はたまた奥さんへの懺悔の気持ちかは定かではない。
いつもありがとうの感謝の気持ち、祝いたい気持ち、自分を呪いたい気持ちが見事にブレンドされたほろ苦い1日だった。
苦いのはコーヒーを口にしてからで、豆を買う段階は苦くなくていいんだよと、落ち込みながら反省をし、今夜も月の優しい明かりに包まれて眠るとします。それでは。