立ち聞きweblog

待ち合わせで相手が遅れてる時とか、何故か眠れない夜とか、通勤や通学の電車とかで流し読みして下さい。

飴と鞭、北風と太陽、山本五十六オマージュ

怒りでこぶしを震わせているわけではないから、そこまで熱を込めて主張したいわけでもなく、だから今日は徒然なるままに筆を進めてみたいと思います。


褒められて伸びるタイプと怒られて伸びるタイプがいるという話を割とよく聞くけれど、果たして本当にそうでしょうか。怒られて伸びるタイプなんてほとんどいないと思うのです。


何やってんだこのヤロー、舐めんなよバカヤロー、ふざけんなよボケナスビ、となじられ野次られ、やってやんよ、頑張ってやんよと言ってる人間はただ建前で言っているだけで、これで成長するという人間は嘘だと思うのですが、そんなことはないのでしょうか。少なくとも私にはこの感覚は欠如しています。


尊敬してやまない山本五十六先生のお言葉をお借りするなら、


「やってみせ
 言って聞かせて
 させてみせ
 ほめてやらねば人は動かじ」


であります。さらに、


「話し合い
 耳を傾け承認し
 任せてやらねば人は育たじ」


なのです。さらに、


「やっている
 姿を感謝で見守って
 信頼せねば人は実らず」


となるわけです。飴と鞭という言葉は何もないところから生まれただけではないはずですが、鞭ばかりを振りかざす独裁主義のワンマンオペレーターの一人くらいどこの会社にもいるものです。少しばかり上からの目線で言わせていただきますと、賢くない、スマートではないと言わざるを得ないのです。幼少の時に何度も読んで聞かされた、北風と太陽という話を知らないのだろうかと首を傾げてしまいます。押してダメなら引いてみろという格言を聞いたことないのかと疑問に思ってしまいます。


今と昔、朝から晩まで仕事して寝る間を惜しんで遊ぶのを美学とする時代は遠に過ぎたのです。今の若い子達に鞭を振りかざせば振りかざすほど、近寄るどころか遠ざかり、成長しないままに会社を辞め、世に放たれるという悪循環に陥ってしまう。まるで子供のような鼻垂れ小僧が、世に放たれるのです。ハナタレ小僧がハナタレる。


今回の記事、うまくやれるはずだとは思っていたのですが、少々考えが甘かったようです。私こそ飴より鞭が必要なのではと切実に思うわけですし、なんだか切なくもなりそうなので、本日はこれで失礼します。それでは。

熱いお風呂と平和な夜

湯船のお湯がいつもより熱いのは、先に入った奥さんが次に入る私のことを考えて、お湯を足してくれていたからであるが、今日はほのぼのとよく気のきく奥様の良いところについて語るつもりは一切ない。


聞こえはしないがありがとうと奥方に小声で呟いて、大きくフシューと息を吐きつつ、外で冷えた体を、湯の熱さに慣らしながら肩までたっぷりと浸かる。1日の疲れが吐いた息と共に身体から抜けていくような感覚に、いっそのことこのまま、などと縁起でもないことは思わぬまでも、だらしなく、力を入れることなく生きたいと願いに似た思いを抱くのである。


湯船の中ではブログ書いたり、youtube井上陽水の少年時代を聞き、その歌詞に幼少期の頃の自分を照らし合わせ、思い出に浸って少し切なくなったり、デーモン小暮のメイクがどんなだったか思い出せず画像を検索してみたり、時間の流れが平日のものとは思えぬほど緩く感じ、クリスマスカラーに染まり始めた街の明かりが妙に平和に思えて、そろそろ湯から出ようかというタイミングで、会社の上司から電話が掛かってきた。


聞けばメモ一つ、三行で終わる仕事の話を、10秒いいかい? から始まる電話で10分ほど、酷似した言い回しで3回に分けて繰り返し聞かされ、電話を切って上がろうとした時にはすっかりのぼせていた。


翌日案の定私のデスクには赤字でデカデカと電話の内容のメモが乱雑に置かれ、昨日のお風呂とはまた違ったため息を深くするのである。


赤字は警告。小さく書くならまだしも、デカデカと走り書きすればそれはほとんど攻撃となる。やってくれ、ではなく、やれよボケと言われているような気がして、嫌な気分にさせられて、年末がぐっと遠ざかった気がした冬の日の愚痴りでした。皆様はお風呂は熱め、シャワーはもっと熱めで風邪をひかぬようお過ごしください。それでは。

 

便意、予測、アプリ

笑うと前へ進み怒ると後ろへ、顔を傾けた方向によって転がる向きを変える、表情をスマホのカメラで読み取って、ボールの行き先を操作できるラジコンのようなおもちゃが発売されたようだ。アプリを駆使すれば何でもできる世の中になったもんである。


今やアプリでできないことを探す方が難しそうだが、私も一つ、ここで実用的なアプリのアイデアを提案したい。


「便意予測アプリ」というのはいかがだろうか。


何をバカなことを、汚らしい、下ネタはごめんだ、という方々、タイトルだけでそう思うのは少々早合点というもの。トイレに入りながらで結構なので、ほんの少しばかり耳を傾けてはくれないか。


さて、どうしてこのアプリを思いついたかを語る上で必ず必要なのが親父の威厳である。


昔から今へと時代が変われば家族構成や力関係も次第にバランスを崩し、立て直しを図るために、誰かが弱くならねばならぬ構図が多くの家庭で見うけられた。


かつて、親父はどの家庭でも最高権力者だった(※サザエさん参照)。地震雷火事親父と言われ、災害に匹敵するほど怖いものだと例えられたものである。


家庭内のバランスを取るために、また家庭を守るために、進んでその強さ、威厳を放棄したのが、親父なのである。だから絶対的ではなくなりつつある親父に感謝し、なくなりつつある威厳を敬愛や尊敬に形を変えてでもいいので、大切にすべきなのだ。


そこで、親父の威厳を守るために重要なことの一つが、長時間トイレに籠る親父に早く出ろなんて言葉を使ってはいけない、である。トイレの中で新聞を読む行為は、昔ながらの親父に見るべき姿なのだから。ウンコが出ずにトイレに長居するのではなく、新聞が読みたいからトイレにいるのである。想像だが、トイレという聖地は、リラックスと集中の両方が得られるのではなかろうか。トイレに新聞は古き良き時代のスタイルなのである。


今は新聞がスマホへと形を変えてはいるが、長い便所、略して長便が親父のスタイルということを断じて否定してはならない。洋服の青山が女性物の高級ランジェリーを店へ並べないのと同じ原理である。


ここまで言えば感のいい人なら「便意予測アプリ」がなぜ必要か分かり始めているだろう。


そう、家で一つしかないトイレで、例えば家族4人では需要と供給がうまくいかない日の方が確実に多い。かく言う私も幼少期、漏れと戦う日々であり、部屋で悶絶、なかなかでて来ぬ父に殺意に近いものを覚えたが、それでも早く出てなんて言ったことはない。


それも親父の威厳に触れられなかったからである。私の身には幸い悲劇は起きなかったが、それでもやはり、「便意予測アプリ」があれば、父の便意到来時間、母の到来時間、自身の到来時間をそれぞれシェアすることが出きるなら、日本中の悲しみの1%は減るのではないかと密かに思っている。

誤解を解かないのが自業自得だから

以前にここで吐き出したことがあるように、かねてから不安ではありました。ゆらりゆらりと柳のように逆らわずに過ごしていたからでしょうか。元はと言えば誤解をしっかりと解いておかなかった、というのが一番の原因に他なりません。


雪だるま式にとでも言いましょう、噂とか嘘と同じ類のそれが手に負えぬほどに大きくなってしまったことにさてどうしたことかと頭を悩ませ始めたのです。どうやら私は社内エンジニアの地位が確立してしまっているようです。


確かに、今の会社に入るときに、エクセルはできるか、パソコンはどれぐらいのレベルかと問われ、人並み以上にはできるし、だからと言ってプログラミングだの何だの、システムを組めるかと言われたらはっきりNO、だけどもホームページくらいは1から作れるし、かつて新卒で入った会社で社内のシステム構築をお手伝いしていたことも思い出し、何と答えてよいのかしばし悩んだ挙句、人並み以上にはできますよーん、と明朗快活、爽やか笑顔で答えたのが、やはり良くなかったのだろう。


社員の半分以上がエクセルワードを扱うどころか、ネットで検索するのも危うい、所謂パソコンに「うとい」人達の集団だとは予想していませんでした。だけどもならば逆に従って、その時はプロとは決して言えない一般人レベルの私でも大きい顔ができそうだと、心の中でニヤリとした時点で、もしかすると予期せぬ方向に運命が転がり始めたのかも知れません。


最近では勝手に入れたソフトの使い方が分からんから教えろや、先日作ったデータをどこに保存したか分からなくなったや、パソコンの更新が長くて立ち上がらんから早く終わらせろだの、挙句の果てには、スマホに入れた連絡先が違ってたからどうにかしてって、私の力量ではまず対応できかねる質問が方々から飛んでくるようになっています。ヘルプをしたいのは本当は私。


私はソフトバンクiPhoneであなたはdocomoのスマートホン。似ているようでまるで中身が違うんですよ、肉まんとあんまんぐらい違うんですよと説明しても、ふむふむ、なるほど、そうかそうか、そうだよね、肉まんうまいよね、ハイっとdocomoスマホを手渡される頻度が日に日に増えています。おかげさまでスマホとやらの操作にも慣れてきました。


もとはと言えば誤解をきちんと解いておかない私が悪いのだとは思いますが、だからと言って水没したスマホのデータをどうにかできるとは思わないで欲しいのです。

神様はいるかいないか

神とはかつて世界を創造した、唯一無二の絶対的なものであったはずだが、現代の、特にインターネットが世に広まって以降、どうもその力が希薄になりつつあるように思えてならない。命を救うお医者さん、予想だにせずに起きた笑いや、二日連続で山田邦子を見た時、ワールドカップの決勝戦でなど、あらゆる場面で神が降臨する。


私は無宗教信者だが、最近の神の大安売りの乱発には流石に目に余る。都合よく使い過ぎなのではないだろうか。


インターネットの掲示板でも毎日、毎時、毎分、文字に化けて多くの人が降臨させているし、もはや神は絶対的な存在ではない。つい最近まで日本中を席巻していたアイドルグループ内の人気者7人が神と呼ばれてしまっている次第である。ただの可愛らしい女子というだけで神となれれば地球はきっとハート型にでもなってしまっているだろう。


例えば、古くからある銭湯のサウナで目の前が霞み歪むほどに熱の神と対峙した後、今度は水の神の世話になろうと水風呂に向かっている時に落ちている固形石鹸に足を滑らせてその場に尻餅、固形石鹸が勢いよく背中一面に仏様をあしらえた人目掛けて一直線。その瞬間きっと多くの人は祈るだろう。どうか助けてください、時間を巻き戻してください、命だけは助けて下さいと心の中で何度も何度も神に願いを捧げる。この場面では本当なら命を与えてくれて、今までありがとうが正解、神が決めた運命に逆らうべきではないはず。


ここで横から石鹸をはたき落としてくれる爽やかな青年が現れたなら、今度はこの人が神となるだろう。都合のいいことが起これば神と言い、悪いことが起これば神はいないと言う。結局神は絶対的なものではなく、人それぞれの中に存在するものとなってしまった。


忘年会の終了間際にほとんどしゃべったことのない社員の人にこれ飲んどけと差し出された、コップ一杯の日本酒をぐいっと空けたのがいけなかったか、降りる駅の改札で切符を紛失しているのを気づいた時には忘年会には神はいないと確信したが、もうすぐクリスマス。せめて今年の残りくらいは少しくらいいいことがありますようにと神の生誕をお祝いしたいと思います。それでは。

日常業務と忘年会準備に追われる師走2017

忘年会の季節である。私が勤める会社でも周囲と歩調を合わせるかのように忘年会が開催されるが、この会社の忘年会は毎年お世話になった外注さんを数十社数十人を招待して盛大に行われるのだ。


事務の私は外注さんと話す機会はそうそうなく、顔まで知っている人は片手で余る程度である。正直なところ、私は誰が来ようが誰と同じ席になろうが関係はなく、適当にやったらいいのにと思うのだが、組織というものはどうにも堅苦しくを望むらしく、そうもいかない。


ゆるやかにゆるくゆるしてをモットーに生きる私には会社の考えが到底理解はできない。だから不満こそ溜め込みはするが、言われたことには逆らわず、だけども陰で愚痴るし、寝違えて困れぐらいの念は送るが、場を荒らすようなことはしない。今年のまだ始まっていない忘年会について、すでに腑に落ちない点がある。


毎年忘年会の準備は内勤の者数人で手分けしてやるのが普通である。私には業者にFAX流して出欠をとる係が回って来たのだが、まあ、そこまではいい。そこからバスの手配、座席表の作成、店とのやりとり、ゲームの景品の買い出しと、考えられるほとんどの事前準備を私がやったと、一体誰か分かっているのだろうか。


もちろん自ら進んでやったわけではないが、グイグイと見えない何かに背中を押されて流れに乗せられて、気づけばほとんどやらされた形である。


暇だったわけではない。むしろここ数日間は、自転車のブレーキの掛け方が分からなくなるほど忙しかった。夜空見上げて震える指で星座をなぞるので精一杯だった。とにかく忙しかったが、先の件も日程ギリギリ、そのためだけに残業もした。


手伝いましょうかの一言があっても、少しばかり手を貸してくれてもバチは当たらないだろう。今年は準備を楽させてもらいました、では私の心は全く満たされない。


仕方がないので忘年会準備で最も忙しくなるであろう前日に休みをもらうことで一矢報いたつもりでいるのである。ほとんど準備は終わっているが。皆さんも損しかしないお仕事にはお気をつけください。それでは。

塾の先生の夢と広告

中学生の時に通っていた塾が今は公文式の看板を掲げていると知った時、得もいえぬ気持ちになった。


当時、1人で塾を経営していたその先生のことは全然好きにはなれなかったが、通えば伸びる成績に学に少しでも興味のある親たちは、塾ならここ、と口を揃えて言うほどの知名度と実績はあった。


今と昔、先生生徒の関係性は違えど、学習の根本は変わらず、「覚える」である。その塾も例に漏れず覚えることに重きを置いていたのだが、方法はというと体に染み込ませるが如く、とにかく反復練習。そこにスパルタというスパイスを加えることで集中力が増し、テストではスパイクを打つように解答がスパッと導きだされる、簡単にいえば、集中力を高めに高めた状態で反復練習する、超がつくほどシンプルな学習法であった。


体罰は年に一回くらいはあったが、殴る時はスクールウォーズよろしく、今から殴ると言って殴り、親御さんにも事後報告をする、男らしいと言えば男らしい先生ではあった。


コンビニならば3店舗は共存できそうな広大な土地に、10畳ほどの部屋が3部屋あるだけの小さな施設を建てたのが、確か私が2年に上がった夏だったように記憶している。その夏のある日の講義、いつものように私を含めた生徒が集まった後、酒に酔っていたのか何か悪いものでも食べたのか、その先生は静かに椅子に座り、部屋の電気を消し暗闇の中ポツリポツリと話を始めた。


・この施設を建てるため、土地代含めて4億程の借金をした。
・俺はこの土地を、この塾を日本一輝く場所にする。
・やる気のある生徒しか取りたくないから広告や看板は出さない。
・俺の志は半端じゃない。
・(慶応大出身というのが誇りらしく)教え子が後輩になってくれるのを願っている。


などなど、熱く熱く語り、最後は美空ひばりを熱唱して解散、という中学生にとっては過激で刺激的でメンタルの弱い子ならばトラウマにすらなり兼ねない夜を過ごしたのは懐かしい。


どうでも良かったが熱い想いだけは分かりましたよと、何となく頭の片隅に置いていた。私が高校に上がった時には、そこまでの大きさは日本一になるのに必要ないと睨んだのか、広大な土地の3分の2程が売られて眼鏡屋となった。残りの3分の1程の小さな建物に、デカデカと生徒募集の看板を見た時には、近道を選んだのだと思うことにしたが、またしばらくすると、その看板が外されて今度はスナックと書かれた小さな看板。大人が夢を諦めたその場所が場末のスナックになるとは、予想はできなかったが、この結末にもがき苦しんだ姿と現実を見たのは確かである。


それがまた数年経った数ヶ月前のこと、久しぶりに実家に帰省し、たまたまその場所を通りかかると、今度は公文式の看板が掲げてあった。


まだその人の物件かはわからないし、その人の始めた公文かどうかもわからない。だけどもどこかで夢を追いかけ再び歩き始めたと信じたい自分がいるのである。


どうでもいいけども。それでは。