立ち聞きweblog

待ち合わせで相手が遅れてる時とか、何故か眠れない夜とか、通勤や通学の電車とかで流し読みして下さい。

雑記-ほんとうに良かったと思うこと

ほんっとうに良かったと思うことが大人になってからは何度かあった。

 


初めて入った定食屋で、親子丼とミニうどんでお腹を満たして席を立とうとすると、いつも入れてる後ろポケットに財布がなく、支払いもそうだが、どこかに落としたのか忘れたのか、焦りに焦り、じっとり汗を滲ませながら、さらには店員の視線も浴びながら、上着、ズボン、あらゆるポケットを手で弄るように探した後で、いつもは持ち歩かないカバンに入れていたのを思い出した時、もしも財布が後ろポケットに入っていたら、今度はカバンを忘れていたに違いないということも含めて、ほんっとうに良かったと思った。

 


また別の日に本屋にて、漫画1冊買うつもりが何だかんだ2冊になって、サイフにお札が入っていないことに気づいたのが御察しの通りレジの前で、偶然500円が2枚入っていた時にもほんっとうに良かったと思った。

 


私にとってほんっとうに良かったと思うことはだいたい、したと思ったミスをしてなかった場合にそう思うことは多い。しかもそのほとんどがお金に関するミスである。それもウン万、ウン十万のようなレベルではなく、1000円前後、外食一回分程度の話である。得てしてそういうものなのかもしれない。大金が必要になるとき、それによりクビが飛んだり後ろに手を回すことになるようなクラスの失敗には、嫌でも注意を払うし、そのときは逆に割り切れるというもの。それに対して、1000円程度のことにはナメや油断があるから、運良くホッと胸を撫で下ろす機会も増えるのだろう。

 


それにしてもほんっとうに良かったと、仕事で何かをやり遂げたり、成功した時にも言ってみたいものである。徹夜で資料を仕上げて良かったとか、嫁のバースデーサプライズが成功したとか、人生悔いなし、100歳まで生きられてほんっとうに良かったとか。

 


 

雑記-インスタント麺でノスタルジーに触れて

一括りに焼きそばと言っても、生麺の焼きそばとカップの焼きそば、インスタントの焼きそばは、ネコとヒョウとトラくらい違う。家で嫁に言う「焼きそば食べたい」は生麺が標準となっているので、カップ焼きそばが食べたい時はカップ焼きそば食べたいと、インスタント焼きそばが食べたい時はインスタント焼きそば食べたいと言うし、それが叶うのが幸せに感じる。

 


実家でサッポロ一番と言えば塩だった。むしろ塩しか出てこなかった。味噌や醤油を願えども出てくるのは塩、必ず塩味。というか、インスタントラーメンはサッポロ一番塩ラーメンしか知らなかった。それから長い年月が経ち、サッポロ一番みそラーメンを食べてみてその美味さに膝に手をつき震えたのが、たしか20歳くらい、一人暮らしを始めた頃のことだった。この感動を誰かに伝えねばならない、これは使命なんだ、と感じた私は会う人会う人にサッポロ一番みそラーメンの美味さについて語ったが、誰にも相手にはされなかった。そこからさらに数年が経ち、ある時誰かにサッポロ一番みそラーメンに生卵2個入れてみなと言われた。

 


たかがインスタントラーメンに卵2個って、そんな贅沢な。貧乏性の自分が睨みを利かせるも好奇心がそれに勝り、タバコを吸う中学生のような感覚で、卵を2個割り入れてみたところ、これまた北海道の大草原を駆け巡ったような感覚が頭を突き抜けた。

 


30も半ば、今私がハマっているのは生麺、カップ、インスタントに限らず焼きそばを食す時には半熟の目玉焼き2個をトッピングすることである。もはや貧乏性の影もなく、なんのためらいもない。少し寂しくだけど少し成長したから、サッポロ一番しょうゆラーメンにチャレンジしようと思います。それでは。

雑記-夢と現実

調子いいなと朝起きた時からわかっていた。体は軽く食欲はあり、片手で逆上がりだってできそうだ。出発までの時間はまだある。愛犬の しげお と さだはる を連れて朝日をバックに海辺を散歩。軽くジョグを交えながら帰宅。凄く良い。できればすぐにでも試合を始めたいくらいだ。球場へはタクシーで行く。なるべく試合まで余計な神経を使いたくないし、自分では運転しない主義だからだ。球場ではミーティングで相手選手のデータを一応頭には入れたが、まあ必要ないだろう。


ブルペンに入ってのウォーミングアップのキャッチボールでは、投げる瞬間のボールへの指の掛かり、指先の感触がまるでいつもと違う。本日1球目、軽く投げたストレートには美空ひばりの歌声よりもノビがあった。肩慣らしで投げたフォークはいつもの倍近くの落差、スライダーは昔テレビで見たスプーン曲げよりよく曲がる。キレが違うのだ。意識しなくても三振の山が富士山よりも高く積み上がり、1本のヒットを許さずノーヒットノーラン、余裕の0点で抑える大活躍。夜には少しおバカだけど可愛い嬢を両脇に抱えてビールをピッチャーで飲む姿が目に浮かぶ。ピッチャーだけにね。


…というくらい味付けの濃い作り話にも負けず劣らずな調子良い日が私にも来たらいいのに。野球やったことはないけれど。現実にはノビたTシャツをキレば裏表が逆で、それに気づいたのは家と会社の中間地点。そういう日だから、仕事ではおバカなミスがよく目立ち、今日は0点。目に浮かんだ涙を堪えながら家でジュースより安い第3のビールを1本だけ飲んだ。

雑記-盆前なのでまじめなやつを一つ

本気で願って死ぬ気でがんばれば夢は叶うと思うのです。今まででたった一度だけ行った同窓会で、私の、黒髪、中肉中背、メガネという真面目な学級委員長を絵に描いたような見た目からは考えられないほどの適当さ加減、不真面目さをいち早く見抜き、私に厳しかった元担任が「何かを始めるのに早いとか遅いとか関係ない。ご飯のおかずが減るだけだよ。」と言っていたのが今でも励みになっています。


例えば今から夏の甲子園に出たいとか、制限があるのかは知らないですが、身長体重が引っかかる可能性が極めて高いジョッキーになりたいと思ってもそれはまずは無理な話です。だけども、死ぬ気でそれに向かってがんばれば、例えば甲子園の始球式で投げることができたり、自分の馬が有馬記念とったりと、夢に極めて近づける可能性はゼロではありません。


強く願うことはがんばるうえで糧となるとはいいますが、実際問題その前にどうがんばるかがミソとなります。ただがむしゃらにがんばるだけでいいならば、そろそろ私の左腕にはアップルのスマートウォッチ、移動はもっぱら、運転手付きのハリヤーとまでは言わずとも、OXBOARDくらいになっていてもおかしくないはず。ではなぜ左腕に付けるのはせいぜい日焼け止めくらいで、移動はもっぱら変な音がするチャリなのでしょうか。恐らくがんばり方が間違っているのでしょう。死ぬ気で頑張れていないからでしょう。


このままではいかんので、まずはどこに向かい、どうなりたいかを本気で考えたなら、頑張らずに楽に生きる方法を真剣に探していることに気づきました。そして何より今は、休みの予定だった13日が出勤になりそうなので、それだけは死んでも嫌だと本気で願っているのです。

 

これからの長い人生の道のりは思ったより険しそうです。それではまた。

雑記-夏だから、 何となくドリンク から 一応トイレ まで

朝はまだマシか、いや全然マシではない。太陽に当たれば腕、顔など露出部分にミリミリと紫外線がめり込むような感覚を覚え、特にこれといった用のないコンビニへ駆け込むこと数え切れない。


駆け込んだコンビニではまずはざっと雑誌やコミック類をチェックして、紐で結ばれて読めないようにしてなければ立ち読みくらいはさせていただく。と言ってもこれだけしょっちゅうコンビニに立ち寄っていたなら、だいたいの雑誌のラインナップは把握。1日に何度も入れ替えないことくらいは知っているし、代わり映えしない雑誌コーナーで欲しいものはほとんど見つからないので、その後「一応トイレ」に行ってみる。尿意を催してなくても汗だくでも、不思議なことに少しくらいは出るもの。だからスッキリしたということもないのだが、まあ、そんなものだろう。手を洗い、そのままレジを横目に素通りして出るのも何なので、「何となくドリンク」を買うのである。コーヒー、コーラにお茶、水と。一度に全部は買わない。また次のコンビニが待っているから。


不要だ、無意味だ、勿体ない、と言われると辛いが、今年は例年以上に「何となくドリンク」する機会が増えている気がしてならない。それもこれも盆がすぐそこに控えているにもかかわらず、一向に下がる気配のない気温のせい、つまりは熱中症対策だと言えば、だれも私の「何となくドリンク」を止められはしないはずだ。


「何となくドリンク」をするから、売り上げに多少なりとも貢献しているから、コンビニで昼夜を問わず働くスタッフさんも、私の「一応トイレ」に舌を打つことはもちろん出来ない。よってスタッフさんに気を使わずに店内で体温を下げることが出来るわけだ。


受験で例えるなら、コンビニは模試である。自分の今の状態を確認することができる模試の役割だ。とばしても良いがとばさない方がベターな模試とあらば、受験は帰宅か。ならば合否は一体…自分の例えきれていない例えの見切り発車に頭を悩ませるようになったのもきっと暑いからである。ここは皆様のお力を借りたいところだが、カンニングだ、コンビニで言うなら万引きだと言われそうなので今日はこの辺で。それでは。

 

雑記-プレステ4を取り逃がしたのに、思いの外夏休みは長かった。

社会に出たなら、特に私のような貧乏人は、1日の大半を仕事に費やさざるを得ない人間がほとんどだと思う。例えば日中に仕事をするとしたなら、朝6時半に起きて準備して、仕事に行って残業なく会社を出るのが5時半で、帰り道に30分かかるとしたら家に着くのが6時過ぎだ。それからご飯を作って食べて風呂に入ってゴミ出しとか細かな家事をこなし、ふぅっと落ち着けるのはだいたい8時くらいからだろうか。1日健康的に7時間寝るとしたなら11時半にはベッドに入りたい。寝る前の歯磨きや戸締りに15分かかるとしたら、11時くらいにはそろそろ寝るかモードに入らなければならない。となると、1日に睡眠以外で自由に使える時間は3時間程度。


週5日働いているとしても、週に15時間は自由時間があるはずだ。普段は何をするでもなく、テレビ見てブログ書いて屁こいて嫁に睨まれ眠るだけだが、遊ぼうと思えばそれなりに遊べるし、勉強したならもう一度受験出来そうな程、学を溜め込むこともできる。要は時間の使い方なんだよね、メガネをクッと上げて飲み屋で顔馴染みに偉そうな事を言ってはみたが、私は人に優しく自分にも甘くをモットーに生きている。時間を絞り出すようなムチを打つことはできない。ある時間を美味しくいただくので十分なのだ。


管理がずさんな管理会社のおかげで、ネット契約時に手に入るはずだったプレステ4が手に入らず、どうせやる時間無いしいいか、と一度は割り切ったものの、店でプレステ4が売っているのを目の端でチラリと捉えてからまた欲求が再燃。欲しくて欲しくてたまらぬ時を過ごしている。やりたいソフトなんて何本もない。何度も言うがやる時間がないのだと、自分に言い聞かせてはいたが、夏休みが思ったよりも多かった。ソフト2本くらいクリアできそうな程多かった。ああ、欲しい。ますます欲しくなってくる。予定の入らぬ盆休みにプレステ4があれば楽しいだろうに。

雑記-やかましいと思った音が今では癒しの音に聞こえる

電車が好きである。小さい頃、乗り物酔いがひどく、10分も自動車に乗っていたなら発射準備は完了していた。自家用車で遠くに行く時、込み上げるものへの我慢が限界に近づき、あとどれくらいで着くか両親に尋ねたら、あと10分で着くからと言われ大人しくしてたが、待てども待てども目的地には着かず、結局1時間乗せられっぱなしだったということは少なくない。


車酔いはその時の気分で緩和することは少なくない。つまりは親は私に安心を与えて…という作戦だったのだろうが、あと10分我慢すれば着くと思い込んだ私からしたなら、親への不信感が募るだけ。脂汗をかいて耐えたあの頃の苦い思い出と変な作戦を使った親へのわだかまりは忘れることはできないのだが、車はダメ、飛行機、船もダメで、バスはもっとダメだったにもかかわらず、電車だけは平気だった。漫画読んでもお菓子を食べても気分が悪くなることはまるでなかった。


そういうことも大きく関係して私は電車が好きなのだ。と言っても時刻表をそらで言えたり、車両の写真を撮りためることはなく、オタクと呼ばれる人たちの1割にも満たぬ愛ではあるが、たしかに愛している。


今度引っ越してきた場所は徒歩5分で駅に着く。当然線路もすぐそこにあり、電車の音も聞こえると。私があらゆることに過敏だった10代だったなら頭をかきむしり、日々ヘッドホンを付けて部屋をウロついていただろう。20代だったなら耳栓をして電車の走る夜12時過ぎまでは睡眠、深夜から明け方にかけてを自分タイムとして夜を楽しんだだろう。そして今30代の半ばになったが、なんと心地よいことか。電車の走る音が、まるでこけら葺きの屋根から落ちた朝露が水溜りを打つかのような癒しの音となった。


私も大人になったものである。かつては自分の生活以外の音が邪魔で仕方ないと思ったことがあったのに、いまでは逆。むしろ欲しているから歳をとるとは不思議なものだ。全部ひっくるめてやはり電車は好きだ。