立ち聞きweblog

待ち合わせで相手が遅れてる時とか、何故か眠れない夜とか、通勤や通学の電車とかで流し読みして下さい。

雑記-影響をモロに受けることもたまにはあるのかも

語呂合わせならハニワがしっくりくる本日8月28日更新のこの記事は、当ブログでは珍しく、3度の書き直し、これが4度目となった。過去にはエバーノートを使ってスマホとパソコンを行き来しているうちに同期がうまくいかず、9割型出来上がった記事に丸ごと白紙を上書きするというファンタスティックな事故を起こし、一から書き直したことはあったが、基本的に何を更新しても良しとしているからこそ、誤字脱字、言い回しの不備に関する修正は日常茶飯事とは言え、内容そのものを書き直すという行為はしないし、どちらかと言えば書き直さずにその時の心境で書き殴った記事を、後でどうしてこんなこと書いているのかと考察するためにも、あえてそのまま公開するようにしている。

 


私は普段から他人には無関心、と言ってしまうと素っ気ないから、「但し親類、好きな友達を含まず」と言葉を付け足しておくとして、基本的には誰がどこで何をしようと知ったこっちゃない。そりゃニュース見て心痛めたり、怒ったり、時には潤されたりすることもあるが、どこかでやはり関係ないこととは思ってしまう。であるからして、誰がどこで何を言おうとあまり気にも介さず当ブログを続けていけているわけだが、今日ばかりはキーボードを叩く、あるいはフリック入力する指が思うように滑らかに動かない。

 


何故かという理由は多分ほとんどははっきりしている。あるブログの影響をモロに受けてしまったのだ。久しぶりに出会ったと言っていいそのブログは余命宣告を受けたとある人のブログである。宣告を受ける前と受けた後で文章の質、重みがガラッと変わってその方の伝えたいという想いが一文字一文字を介して私の脳内まで訴えてくる。さらに筆者は私と同い年で奥さんの職業も同じとあらば、吸い込まれるようにそのブログを読み漁った後に、自分のブログ書こうとパソコンに向かったはいいが、気付けばまるでその方のブログをトレースしたかのような内容、構成になってしまうのである。

 


初めての経験である。他人が私に文章を書かせるような感覚で、まるで自分の意見を語れていないような気さえした。オリジナリティだけが取り柄のブログなのにそれすら失うことは、もはや心のないロボットがランダムに単語をチョイスし、繋げて文章を作成するのと同じこと。そこをオッケーしてしまうと、なんだかこのブログの在り方を否定する気がするし、そして何より海の底で読むのに適するような、どんよりと息苦しい内容になってしまう。いかんいかんと、書いては消して書いてはまた消してを繰り返してようやくここである。

 


というわけで今回はただのリハビリ的内容でしたが、時間的には、コーラ買いに行ってトイレ休憩を挟みながら映画一本見るのと同じくらいかかっているし、だから何と言われたなら、手はけして抜いてないと言わせていただき、それから、生死について少しでも考えさせてくれたあの方への感謝の気持ちを胸に秘めつつ、今回はここで終わりです。それでは。

雑記-電車とバス、どちらで得したいか

昼間は旅行客や地元の人、若い男女で賑わうこの街も、朝8時前はこれから出勤の人が数人歩いているだけ。かく言う私もその1人なのですが、いつもは通勤時に通らぬこの道を1人のんびり、たまに段差もない平坦な道につまずきながら歩いているのは、仕事が嫌になった挙句の放浪ではなく、交通費の節約に他なりません。

 


普段なら大体チャリで出勤なので、会社から出る公共交通機関の定期代はほとんど懐を温めるカイロのようなものなのですが、雨が降るよ、多分強めにね、などと、朝からテレビの中で天気予報士がそう言う時には、仕方なく公共の交通機関での通勤となるわけです。

 


バスの場合、我が家より徒歩3分の所にあるバス停から、会社まで徒歩7分の所にあるバス停まで乗り継ぎなしで行ける。電車なら我が家より徒歩5分のところの駅から会社まで徒歩25分のところの駅まで行けると。ならばどう考えてもバスでしょうよと声が聞こえて来そうなのですが、片道当たり、バスは230円、電車は150円。その差にして80円。台風の影響による大雨が予想されるよと言われた今朝、起きてトイレに入った時にこの80円が何故か無性にすごく無駄なような気がして、ならばと電車通勤してみたのです。

 


その結果、電車通勤も悪くないなと思いました。バスほど混んでないし、乗車時間は10分もない。駅から会社まで30分近く歩かなければいけないのは、夏の暑さの中では少しは辛いが、それでも日頃の運動不足と体重過多を考えたならそれも良いと思えてしまう。それでいて往復160円の浮きは、微々たるものと言えど積もれば安くはない額。一回につきペットボトル1本が付いてくると考えたなら…そう言えば朝レッドブルをホームの自販機で買って飲んでるじゃないか。…ということで、電車通勤は流した汗の割に50円損するという結果になりました。ちゃんちゃん。

雑記-悲しい話 気付かれずに消える才能が儚い

たとえば、長い間一つのコミニティーの中にいると、気の合わない人とぶつかることもあれば、不満も溜まることもある。そういうものだし、それは受け止め自分の中で消化するだけ。

 


一から作り上げた自分のコミニティーでないなら、そこは人が作った場所。ただ間借りさせてもらっているだけの立場だし、だから嫌になったならそこを辞めたら良いだけだ。少なくとも私のスタンスはこれだなと、30過ぎてようやくそう思えるようになった。同時に「居場所は自分で作るもの」という意味を履き違えていたなあと気付けたのは自身のようやく固まってきたスタイル形成の意味でも大きい。その代わり「やりたい事しかやりたくない」が芯の部分に居座ることとなったが、それもまあその通りだし、ダメ男というレッテルを貼られたとしても、甘んじてそれを受け入れたいところ。

 


私の職場にYという人物がいる。全社員が30人に満たない小さな会社ではあるが、会長、専務を除けば歴が最も長く、高校卒業から40年近くこの会社に勤めているらしい。聞いた話によると、昔からずっとそのまま、全く変わらぬ人らしいが、他の社員はこのYという人物を、「独特な人」「変な人」と表現することが多い。

 


この表現に私は凄くデコボコとした固いものが背中に当たるような違和感を感じている。おそらくそれは、大人として、苦手や嫌いとは言えず、結果「独特」や「変」という表現に逃げているようにしか思えないからだ。実際、遠回しにクレームというか悪口に近いその人への陰口を何度も聞いたことがあるし、その場にたまたま居合わせた時に、ねえ、そうでしょ? あんたもそう思うだろ? なあ、そう思うだろうよ、と問い詰めるように意見を強要されたことはある。その時は嫌ならあんたが辞めたらいいと心の中で呟きながら、笑って答えをはぐらかした。

 


面倒な事務作業は全て周りに押し付けて、契約書類の類もハンコを押して印紙を貼った後に間違ってたとか平気で言うし、いつもヤフーのニュースを読んでいるし、会議に出す資料の数字も間違っているのは日常茶飯事。仕事をしていないように思われてもしょうがない。

 


独特な人、変な人と言いたくなる気持ちはわかるが、誤解しないで欲しい。私はこの人は尊敬し見習うべき人物だと思っている。確かに初めは苦手だったし嫌いだった。だが、話すうちにこのYという人物の思慮深さに驚かされることが多い。適当さ加減が表立ってはいるが、誰よりも深く広い知識があるのを誰も気づいていないのだろうか。たまに口にする意見がどれだけ芯を喰っているか知らないのだろうか。

 


いつのまにか会社の広報の全てが私に回ってくるようになっていたし、好きな仕事だからそれは積極的に取り組んでもいる。それもあり、社員のほとんど全員にいろんな話を聞いてきたが、このYという人の話だけは格別。誰も追いつけない領域にあることだけは確かである。表面上を取り繕ったペラい人物ではないということを気付かぬ周りが残念でならない。

 


このYという才能が、誰にも気付かれずに何も残さぬまま忘れ去られる運命にあるのが凄く悲しい。
 

雑記-まだ400本に達しないけれど、それでもわかってきた事

ほとんど意地で更新しているだけのブログと言われても言い返す言葉が見当たらぬ、当ブログも4度目の大台、400本が見えてきました。意識してないと言えば嘘になるけれど、だからと言って食うに困らなくなるわけでも、家のテレビが一回り大きくなるわけでも、10年近く使っているマックブックが新しくなるわけでもないとあらば、ただの数字でしかないとしか言いようがありません。世の中には、こんにちは、初めましてで始まったと思いきやそのまま更新が滞っているブログが数多存在していることを鑑みると、そこそこやっている方だという自覚はあるのですが、それでも自慢できるもんでもありません。ただ、門前の小僧習わぬ経を読むとでも言いましょうか、やっていたならいろんなことに気づくものです。無意味な時間をよくここまで積み重ねたものねと、綺麗だけど高飛車な若い女子に言われるのも癪ですので、今日はいつもと少し志向を変え、ブログをやっていたから身になったということを紹介したいと思います。

 


まず、当たり前のことですが、改めて声を大にして言いたいのが、いつでも破れる(破っても別にだれも困らぬ)ノルマをこなすことの辛さです。私の場合、ノルマを毎日の更新としてしまったなら、まず守れない。それどころか何度目かの破りの後に嫌気がさしてブログ自体を止めてしまう可能性は、チェ・ホンマンのテンプルの位置よりもかなり高め。なので、自分が破らず守っていけるギリギリが週5本(休日除く)に設定したつもりでした。むしろ通勤通学というまるでもったいない時間を、さらに無駄にするつもりで当ブログを斜め読みしてもらえればなという想いが、ブログを始めるうえで決めたコンセプトにはあったのでそうしたわけですが、別に仕事でもなんでもないこのノルマに追い込まれ、苦しめられることは少なくありませんでしたし、多分今後も頭をかきむしることがあるのでしょう。ですが、やってやれないことはないこの負荷が、目の前にぶら下がる人参というよりも、ややマゾっけのある私にとってエサとなる、ケツを叩くムチとなっていることは嘘ではありません。

 


夏休みボケがまだ抜けてなく、何を言いたいかよく分からなくなってきたわけですが、何かを継続するのにノルマの設定は重要だということ、続いてこのブログを続けることでわかった、気になる異性を確実に落とす方法、1日1回逆ナンされる方法、世界で一番幸せになれる方法と、はじけるようにキーボードを叩きたかったコンテンツがあったのですが、これ以上は当ブログに似つかわしくない文量になりそうなので、今夜はここまで。それでは。

雑記-試験とその前に試練と

面倒だろうとは思う。だが少し羨ましくもある。うんうん唸る主を見てそう思った。

 


仕事で使う資格のためと言えど、我が家の主は今、月に一度、レポートを提出し何度かある講義を受講し、試験を受けるために大学へ通っている。専門的な教科書を読み、3000文字との指定のあるレポートの作成に日々追われているわけであるが、昨夜も左手に教科書、右手にチョコレートを持ったまま、今日の試験のための勉強でうんうん唸っていた。

 


いつの事だっただろうか、最後に試験勉強をしたのは。今の主の姿を、遡れば遡るほど薄くなる記憶の中の自分に置き換えていた。私の場合は右手にはカップラーメンだったが。大変だとは思うが少し羨ましいのは、学生時代あれほど嫌だった勉強をやればやるほど身になるものだとようやく気付き始めたからだろう。学校の勉強が全てではない。学校では教えてくれないことほど自分で積極的に学ばなければならないこともよくわかった。

 


学生の頃、特に小学校中学校の勉強で最も正とされていたのは、教師ではなく教科書。教科書を丸暗記さえできてしまえば全ての試験は満点だったろう。そう思えるほどに重要だったのにもかかわらず、大学の一部の、特にその授業の教授が執筆した教科書というのはどうしてああも分かりにくいのか。読解力の問題ではないと断言できるほど、見出しと内容がまるで合わないその教科書に、うんうん唸るのも仕方ないと思いつつも、寝る時間削って死ぬ気で頑張れと喝を入れてコーヒー入れて私はベッドに入った。

 


そして今日、起きた時にはすでに主は試験に向かい、テーブルの上には私のために朝ごはんが置いてあった。なんて、なんてできた嫁か、込み上げるのを堪えてふと勉強机を見ると、昨日忘れないようにと中身を念入りにチェックし準備していた、筆箱が置いてあった。

 


テストに筆箱を持たぬのは裸で戦場に向かうのと同じ事だと思う。どのタイミングで気づくだろうか。私が今から追いかけて行ってもまず間に合わない。電話には出ず、既読にならぬラインが主への試練は試験以上に大変なことになることを暗示しているように思えてならない。


 

雑記-甲子園準決勝と決勝の観戦の仕方について

ロゴがピンク色のフリスクを噛まずに舐める。ほんのりとした甘みが舌の上に少しずつ広がりやがては舌全体を包む。が、じきに我慢できずに奥歯で噛み砕き、おかわりしても再び噛まずに舐めていても気づけば無意識のうちに奥歯で噛み砕いてしまうのは、フリスクは噛んで食べるものと体がそう覚えている所謂習慣が1割、甲子園準決勝と決勝の日にやりたくもない仕事に精を出す自分への歯がゆさが9割である。

 


人は感動を求めて日々を過ごしているんじゃないだろうかと思うことがある。心潤す映画見て感動し、ジュースより安く買えるチューハイに感動し、最後まで諦めない全力プレーに感動する。日々のビタミン、不足しがちなミネラル、お肌に良しとされるコラーゲン、これらは全部感動が補っていると言えば言い過ぎだが、心の傷を癒して明日への元気の源になっているのはあながち間違ってはいないはず。

 


今年の盆休みは長かった。ちょこちょこと出かけてはいたが、1日の半分ほどは家でテレビ、撮り貯めたドラマの消化、そして甲子園の応援に精を出した。

 


甲子園はいい。都道府県が違えば生きる世代も違う彼らを何故か応援したくなる不思議が甲子園という場所にはある。彼らの流した汗と涙は私の乾いた心を潤してくれるはず。だったが、準決勝、決勝が行われるのが、大人の夏休みが終わった直後の平日昼間というのはどうなんだいと高野連に問いたい。土日でしょうよ、大人も楽しみにしてるんだ、どう考えても土日開催になるように調整すべきでしょうよ。

 


ようし、いつか見てやる。来年か再来年か10年後かはわからないが、いつか平日昼間に家で見てやる。夏、日差し、人混みが苦手だから球場には行けないが、高校生の人生かけた激戦を、クーラーの効いた家でビールに唐揚げ、もしくはハイボールに唐揚げで見てやろうじゃないか。

 


休みを取ればいいとか、仕事辞めればできるよね、とかそんな簡単なものじゃなく、週休4日6時間勤務を目指して頑張ろうって話です。

雑記-選手の気持ち

こんな場面が高校野球部に入ってたった5ヶ月で回ってくるとは俺も「もっている」側の人間なのだろうか。負ければ3年は引退。もしかしたらあと1球で終わり。瀬戸際だが流れは今うちにある。甲子園2回戦、野球歴10年の自分にとって一番の見せ場だ。9回裏満塁、2アウトでフルカウント。9回の時点では5点あった点差が、これまでまともな当たりやフォアボール一つなかった相手ピッチャーの突然の乱れによる、四死球の連続とラッキーな内野安打でじりじりと2点差。ヒット一本で同点、長打でサヨナラ、ホームランなら言うまでもない。高校野球には得てしてこういう偶然が重なり、安全圏と思われた点差がひとつのプレーをきっかけにひっくり返ることは珍しくはない。たったのアウト3つ。このたったの3つが運命を左右することは往々にあるから面白い。

 

 

観客の声援が遠くに感じる。チームメイトの思い切っていけという言葉がやけに大きく聞こえる。空はいつもより青く、球場がいつもより狭く、そしてピッチャーの投げる球がよく見える。

 


次の一球だ。次で決めてやる。

 


きっと決め球スライダーを外角低めに…いや、渾身のストレートか。俺の後からクリーンナップが打席に入ることを考えたなら、バッテリーは一年のまだ経験が浅い俺で試合を決めたいと思っているに違いない。なめんなよと言いたい。中学校では名門で四番を打っていた俺だ。勝負強さには定評がある。足は遅いが、確実にバットに当てる技術、ミート力だけは3年を含めても決して引けをとらない。それを知ってか知らずでか、俺で勝負をかけてくるとは。ま、当然と言えば当然だが、なめんなよと、なめんじゃないよと一言だけピッチャーとキャッチャー、相手監督に言いたい。それに向こうのピッチャーはすでに120球を超えている。疲れもピークだろう。ならば確実にストライクゾーンに入れてくるはず。となればストレートか。しかし、相手ピッチャーは手元で急激に曲がるスライダーを今日の決め球にしているのはあきらか。やはりスライダーか。まてよ、そういえば監督が試合前にこんなことを言っていた。

 


「のどが渇いたなあ。マネージャー、紅茶もらえるかな。夏だけど熱い紅茶を頼む、濃いめのストレートティーでね。」

 


監督、その何気無い一言、きっと天のお告げってことですよね。勝利の女神が監督の口を使って俺にヒントをくれたってことだよな。おめでとうございます、先に言っちゃいますが、この試合に勝ってあんたを漢にしてやるよ。そういえば監督、再来年で退官でしたよね。退官祝いに伝説をプレゼントしてやるぜ、甲子園三連覇という伝説をよ。

 


…ん、ちょっと待てよ、たしかマネージャーが間違えてミルクと砂糖を入れていたような…。ならばストレートはないじゃないか。だとしたらやはり勝負球のスライダーか、いやいや、ストレートティーはストレート、これはわかる。だけどもミルクティーがスライダーだと誰が決めたか。確か相手の球種はストレート、スライダー、あとチェ…

 


ズバン!! 決め球のチェンジアップが低めいっぱいに決まったー!! バッター動けず!!

 


遠くに見える大きな白い雲がニヒルな笑みを浮かべる女神に見えた。