立ち聞きweblog

待ち合わせで相手が遅れてる時とか、何故か眠れない夜とか、通勤や通学の電車とかで流し読みして下さい。

雑記-12月が憂鬱なのは私だけじゃないはず。嫌なイベントが目白押しです。

ふふんふんと鼻歌まじりで冬休みの予定を練っていたのが昨日。断食に挑戦という、自分でもまさかの候補が浮かんで心躍らせていたのに、数日後に10年以上ぶりの健康診断が控えているのを思い出して少しばかり気が重く、また今週末に控えた忘年会を思い出してさらに気が重く、またまたバイトから正社員となり時給自体が下がっているということに今気付いて、もはや地面に這いつくばったまま、起き上がる気力すらない。仕方ない、昨晩作ったカレーでも食べて元気出すかと、重いケツを浮かせて膝を引きずり腕の力だけでキッチンへ向かったが、すでにカレーはカチンコチンに凍らされた後でした。

 


温めて食べたらいいよ、と嫁は言うが、凍らせてから1日も経たずに解凍して食べるのは、なんだか無駄な時間をわざわざ作り出しているようで気が進みません。それにいつかの休みの日の昼間、昼食何食べようか悩んで冷凍庫を見るとそこには凍らせたカレーがあった、となる方が絶対にいい。だからここは我慢して、キッチンに立つと目の端にたまに写り込んでくるジャイアントコーンとミカンをいただきました。

 


なぜだろう。重要なことも生きてりゃなんとでもなるさと重く受け止めず、流されるように生きることが私のアイデンティティを保つ秘訣だったのに、嫌なことを嫌だと思わず放っておくが気楽に生きる手段だったのに、ここ最近、嫌なことで気持ちがどんより曇るのはどうしてか。らしくない、きっとストレスと疲れが溜まっているんだ、今日はゆっくり眠りな。どこからともなく囁くような声が聞こえた気がして、10時を過ぎて布団の中。さっきからスマホいじる手から力が抜けてきて、カックンカックンうつらうつら。

 


この瞬間のために生きていると微睡みを堪能していたのに、スマホの充電があと4パーしかなく、さらに充電器が隣の部屋のコンセントにささったままだというこのピンチ。だけどもう寝ようと思います。目覚ましが鳴らない可能性はあるけれど、なんとかなるよね、うん。

雑記-冬休み、断食と勉強と

12月29日から始まり1月4日まで。と思いきや5日を挟んですぐさま6日も。

 


そう、今年の冬休みである。ちょっとした病休気分を味わえそうなほどに、相変わらず長い年末年始の休みには感心するばかり。会社的には5日を休みとしても良いらしいが、会社に行きたくない病が発病してしまえば、社会的にも家庭的にも認めてもらえない病欠を、永遠にとりかねないので、後ろからスタローンが顔を迷彩柄にメイクして機関銃やマシンガンを持って見守ってくれているような、たった1日行けばまた休み、という安心感でウォーミングアップがてらに出勤することにした。

 


と、まあ連休になれば、何しようか、どうしようかという充実感を得るために暇を作るまいとし予定を無理矢理入れたり、外に出て用はないが電車乗ってみたりと、ある種の強迫観念的スケジューリングで気疲れすることも少なくはない。食べていくための仕事ならば、給料変わらずに休みは出来るだけ多い方が良いけれど、連休が多すぎるのは苦手。ただ、創作意欲を満たすための仕事ならば休みはどれだけ少なくてもよいというのを根底に置き、約26日後の予定をそろそろぼんやりと考え出しても良い。

 


さて今年は何をしようか。いつも休みに入ってから年明けにかけて、無駄に時間を削がれる年賀状はクリスマスまでには終わらせられると仮定するとして、昼のお仕事がある時には不可能な、まとまった時間を要するやりたい事はないかと考えたなら一つ浮かんだ。

 


かれこれ7〜8年前から1度は経験しとかないとと思っていた、「断食」だ。1日だけの断食なら若い頃、ウイイレに取り憑かれた時によくやっていた。ならば年明け前、休みの入る29〜31日の3日間、もしくは仕事納めの28日から飲みの予定が入った1月3日までの7日間か。

 


それと最近1番の趣味となったカメラ、カメラのために購入したと言っても過言でない、イラレやフォトショを触りたおすと。

 


考えただけでアドレナリンが分泌されそうだ。数多くの誘惑があるんだろう。餅に焼肉にミカンに雑煮に…数々の誘惑に打ち勝ってみる景色はさぞかし爽快だろう。あ、年末になかなか会えない友人ととびきり美味いアイスを食べる約束があったのを忘れていた。先程すでに嫁と嫁の親御さんに断食宣言してしまった手前、今からは引き返せない。どうやら負け戦に挑む冬休みとなりそうです。

 


冬来りなば春遠からじとは言うが、私の春が来るのはまだまだ先のようだ。 

雑記-なぜ画家は絵を描くのか

なぜ昔の画家は絵を描いたのだろう。暇だったのか、赤子が絵を描く延長か。絵に値段が付くようになったのはいつ頃からで、対価を支払って、絵を買おうとするのはどうしてか。絵を一日中眺めていてもお腹は膨れないし、眠気は必ず襲ってくるし、尿意からも便意からも免れない。

 


例えば、行ったことのない場所の風景や、建物、見たこともない動物などが描かれていたなら、興味や憧れを買う気持ちはわかるが、どうしてゴッホのひまわりや、フェルメールの人物画があれほど評価されるようになったのだろう。本物では表しきれていない何かが描かれているのか。

 


なぜ絵が売れるのか分からない。先日著名な経営者が購入して話題となったバスキアのようなアートに高値が付くのはわかる気がする。先程言った、見たことがないものへ憧れる心は誰にでも備わっているはずだからである。アートはもしかしたらその心を満たしてくれるものだから、お金を支払う気持ちはわかるが、所謂、模写にどうして高値がつくのかわからない。今でこそお金を支払うに値する価値あるものだと私でもわかるが、遠い昔、最初に金を出すと言った人、絵を仕事にしようとした画家の気持ちがわからない。今、風景画は売れるのか。高性能なカメラで撮ってフォトショやイラレで加工した写真に勝てる気がしないのだが。

 


芸術家が最後に自ら命を絶つことが多いのは、鋭い感受性ゆえに精神が病んでしまったとか、最後は自分の死で表現したかったからだとか、常人にはよくわからない。だからなぜ絵に値段が付くのかはやっぱりわかりまへんということになるが、多分絵の世界は私が思うよりもずっと深い。知らんけど。

雑記-豊かな朝食

湯気がうまそうな、炊きたての麦飯をお椀に盛り、真ん中を少し凹ませる。お椀の縁で卵を割って、凹ませた部分に卵をブルンッと落とし、醤油を垂らして味の素を一振り。私の場合、かき混ぜ具合にムラがある方が好きだから、箸で乱暴に卵とご飯を数回かき混ぜて、卵かけごはんの出来上がり。ここ数年ほぼ毎日続けている朝食のメニューだ。たまに納豆をのせたり、梅干しをのせたり、軽いアレンジはあるが、ベースは変わらない。今日は味付け海苔と共にいただこう。白い部分が残るご飯と黄身と白身が混ざったご飯をざっくり大きめに海苔で包んで口へ運ぶ。卵がきれいに混ざりきっていないせいか、黄身の味が濃い部分がある。醤油の香り、味の素の旨味が舌を包む。

 


贅沢なものだ。金額のことではなく、とても贅沢な時間を朝から過ごしていると思う。ゆとりある食事はいい。早起きは三文の徳とはこのことなのだろうか、たまにはテレビを点けずにじっくりご飯を味わおうと、舌に乗る食材一つ一つを確認するように楽しんでいた時に、

 


「…だよ。」

 


起きてきた嫁が何かを呟いたようだったが、今はそれどころじゃない。気を取り直し再び食事に集中しようとしたら、

 


「ニワトリのお尻だよ。」

 


今度ははっきりと聞き取れた。一体何のことか分からないが、卵のことに関して何かを言っていると解釈しようとしたが、よく分からない。嫁の方を見て、目で何? と聞いたら、

 


「危険だよ。ニワトリのお尻だよ。」

 


と頭を指しながら教えてくれた。どうやら私の後頭部の寝癖がニワトリのケツの形に跳ね上がっていて、放っておいても自然に直るレベルではないので、そのまま出かけると一日中あなたはニワトリになる危険があると忠告してくれたようである。

 


それにしてもニワトリのお尻と表現されたのは初めてである。せっかくだから夜は鶏肉の唐揚げでも食べるとしようか、今日はちょうどいい肉の日(11月29日)だし。

雑記-年賀状を作り始めた

親戚から届いた段ボール一箱のミカンを消費しながら年賀状を作る日々を過ごしている。

 


そもそも年賀状なる文化には反対である。想像だが、年賀状の始まりはネットも電話もない昔、年に何度も会わない知り合いへの生存確認くらいの挨拶から始まったのではなかろうか。携帯やらSNSやらがすっかり浸透した今、わざわざハガキを送る意味がわからないと、嫁に毎年のように長々と愚痴っているが、面倒くさいからでしょ、と真意を見抜かれ下向いてモゴモゴするのももういい加減やめにしよう。

 


珍しくやる気になったのは年に一度の気まぐれに他ならないが、どうせなら作品として世に出そうと、今はそう思い立った次第だ。それからである。毎晩毎晩イノシシを描き続けて、早2週間。B5のメモ帳3ページがイノシシでびっしりと埋まり、イメージも固まった。猪突猛進をイメージする程の激しさはいらず、クールよりプリティー、小さな子供から還暦近くのおば様まで、見るものを選ばずなデザインに決定した。

 


こんなもんだろうと、よく出来たラフをパソコンに取り込みillustratorで清書。まずまずのできにフフンとニヤリ顔で嫁に見せつけると、鼻でフフンと笑われた。

 


全体像が見えてこないとか、完成したらもう一回見せてとか言われて良いとか悪いとかの評価はいただけなかった。つまりは完全にイマイチの時の反応じゃないか。あと5パターン作ればそれなりになるだろう。頑張ろう。結果的に既製品を使うことになろうとも、精一杯やろう。来年は年男でもあるし。

雑記-モツ鍋の食材を買いに出かける夕方

近頃夕方5時前には陽が落ち、辺りはすっかり闇に包まれる。夏の同刻よりも気持ちの昂りは明らかに少なく、むしろ穏やかで、チューハイよりはウイスキー、フライドポテトよりは生ハムを机に置いてそれを食すでもなく眺めながら、人生とはね…と腕を組み静かなトーンで話し始めるのに適した季節であるのかどうなのかは、皆さまのご判断に委ねるとして、先日嫁と夕飯のおかずを買いに近所のスーパーに買い物に行った。

 


目的はモツだ。かつて学生時代に食べたモツ煮込みうどんが忘れられず、肌寒くなった夜に思い出す。ああモツ煮込み、モツ煮込み。一度頭をよぎるともう離れない。モツ煮込みうどんが食べたい、俺が作るから任せろと言いつつも、どうやって嫁に作らせようと考えながら道を歩いていた時、時間にして5秒くらいだろうか。長いクラクションが四条通りに鳴り響いた。

 


まさか事故か。音の方に目をやると一人のおばさんが横断歩道のない車道を横断中であった。手には買い物袋でどうやら近所の人らしいが、今渡ろうとしている道路は駅の交差点すぐそば。バスにタクシー、バイクに乗用車が入り乱れ、パトカーもしょっちゅうパトロールしている道路である。

 


なぜそんな所をと、ヨボヨボ歩いているおばさんに通行人は皆注目していた。おばさんに向かって怒鳴り散らすバイクのおじさんや、クラクションを鳴らし続けるタクシーがいるのに、なぜこのタイミングでパトカーはいないのか。

 


どうにか車道を渡りきったのを見届けて、私達も店に入った。幸い事故が起こらなくて良かったが、いつか私達も歳をとるとああなるかもしれないから気をつけようと肝に命じてモツを買いました。

雑記-舌の根も乾かぬうちに

三連休突入前日深夜に、全く急ぎではない連休明け月曜の仕事の段取りを、落書き以上メモ以下の拙い暗号並みの文章で送ってきたメールの送信主へ、(もちろん心の中で)悪態をついたのが悪かったのでしょうか、それとも地元に帰省中にお土産売り場で、今まで飽きるほど食べた珍味を2度、観光客のフリして試食するだけして買わなかったのがいけなかったのでしょうか、舌の先に小さく白いプチっとしたデキモノがあることに朝気が付きました。

 


口内炎の一種なのか何なのかは分かりませんが、これが物を食べる時に気にするなというのが無理なほどに鋭く痛み、だからと言って医者に駆け込むほどでもない程度なので、酒が入るたび過去の栄光を何度も繰り返し話す、酔いどれよりも厄介なのです。ほっときゃ治る、誰に言っても同じ回答が返ってくるのは、火を見るよりも明らか。逆の立場なら私でもそう言うでしょう。

 


なぜでしょうか、なぜ私なのでしょうか。日々世界平和を願い朴訥で、ポイ捨てはしないし、既読スルーもしない、無駄な電気は進んで消す私にどうして神や仏はこんな悪戯をするのでしょうか。たしかに、ココイチで普通の辛さのカレーを食べた時、刺激が足りないと呟いたかもしれませんが、これほど舌の刺激に敏感にしてくれと頼んだわけではありません。願いどころか試練、もしくは罰のようにも感じる舌先の痛みに軽度のストレスを感じているのです。

 


私が徳を積んだ高尚な人間ではないのは自覚していますが、このストレスを受けるべき人はもっといると思うんです。舌切り雀に出てくる欲張り婆さんとか、舌先三寸で老人を騙す悪い詐欺師とか、舌ばかり肥えて下っ腹が出てきた、やっぱり私とか。