立ち聞きweblog

待ち合わせで相手が遅れてる時とか、何故か眠れない夜とか、通勤や通学の電車とかで流し読みして下さい。

コラム-受験が終われば入学式やランドセルの季節

週間天気予報から最高気温が10度を下回る日が消え、いよいよ春の訪れを目と鼻の先に待つ季節。春といえば夢と希望に心躍らせる入学式である。ピカピカのランドセルを背負う小さなお子達にはついでに日本の未来をビッシリと背負ってもらいたい。


男子は黒で女子は赤と、ランドセルのカラーを強制的に決められていたのも今は昔、近頃ではパステルカラーとかアースカラーとか、6年間背負う色を自分で好きに決められる素敵な時代になった。精神論で戦争を乗り越えてきた先輩方がそれを聞いたら竹刀で道場の床をビチーンと叩いて、正座させられ、学校へ何しに行くのだと鬼の如し形相で説教くらいそうではあるが、時代は変わったんだと言えば何にも言えなくなるだろう。


小学校に入学したなら、中学高校とあっという間に時間が過ぎ去り、進学希望の若人を待ち受けるのが受験である。かれこれ17〜8年も前のことだが、私もそれのために人並みに学問に打ち込んだ。テレビを点けず、漫画を読まず、一心不乱にやったったと胸を張って言えはしないが、それでもまあまあ頑張っていたのではないかと思う。


失敗はしたし、くじけた事もよくあった。何度も投げ出そうとしたが、一時の事と流れに身を任せたおかげで、一応は完走できたことを誇りに感じて生きている。


今振り返れば、結果が何よりの原動力だった。アップルのスペルで躓き転んだ英語も、グレープ、オレンジ、ストロベリーと、難易度の階段を一段また一段と確実に登り、やればやっただけ能力がアップするのがわかった。難敵だと思った国語の苦手意識も、漢字の読み書きの上達によって克服できた。今年の受験は終わりつつあるだろうから、来年受験だという人には諦めなければどうにかなると、そう伝えたい。


ただ、何をどうしてもモノにできなかった教科がある。それが化学だ。決して得意ではないが嫌いでもないし、正直授業についていけなかったが、それでも、オールナイトニッポン聴きながら、もしも女子と2人きりで過ごしたならば次の一手に悩んで悶々するくらいの時間を費やした科目であるにもかかわらず、受験を目の前に控えたセンター試験の模試で記録した点数は9点であった。


10点満点の9点ならば見える世界も違っただろうし、逆に手が届きそうな天井にさらに燃えただろう。だけども言わずもがな、センターの化学は100点満点。結構頑張って9点は逆に難しい。マークシートだからエンピツ転がして30点とったという自慢にもならない自慢話は山ほど聞いたが、私は真面目にやっての9点である。一生懸命、時間いっぱい使っての9点。一体この先何が見えようか。さすがに無駄な時間を過ごしたと考えざるを得ない。

コラム-生活リズムと日々のルーティンは健康的思考をもたらした

心に刺さると思って読み始めた本が思いの外安っぽい内容だったので、目から脳へと流し読みで一気に流し込んだ。その本の中で呪文のように繰り返される、日々のリズムが大切、生活のリズムを整えよという言葉がやけに頭に張り付いて離れない。


小学校の時、年に一回のお祭りで踊らされた盆踊りは、嫌々やってた割に覚えは早い方だった。中学校の運動会でのダンスは嫌いじゃなかった。だけど、音楽の授業の歌のテストで音程を外して女子に笑われた時から、人に見られると笑われるというトラウマが私の中で大きくなり、人前で音楽(リズム感)を披露することを頑として拒み続けた結果、リズムと名のつくものをどこかに忘れて歳をとったようである。


起きてご飯を食べて会社に行って、出来るだけ気持ちや体力を温存しながら仕事して、帰ってご飯を食べてお風呂に入ってダラダラして眠る。平日は毎日これの繰り返し。嫌になる人もいると思うが、私は一度体が覚えたルーティンを、そう簡単には乱せない。


もしかしたら依存やクセという状態に近いのかもしれない。このルーティンこそが私にとっての生活リズムであるし、毎朝起きた時からリズムが始まり、決めポーズ(眠りにつく)まではこのリズムが狂わぬ淀みない時間を過ごせることが、日々の嫌なことを続けるための秘訣でもある。


生活のリズムが整ってくると、体にもリズムが出来てくる。朝はスッキリ目覚めるし、入眠もスムーズだ。間食も減ってきたし、体調のいい日も増えた気がする。まだまだ死ねない私にとって、健康的な思考に変わりつつあるのはリズムがもたらせた良い習慣である。


健康的と言いつつも、私は喫煙者で、やめる気はないが、紙巻タバコから電子タバコに変えて、日に二本しか吸わなくなった。朝の大きい方のトイレのお供で一本と、夜寝る前のリラックスタイムとしてベランダで一本。まだ先のことだろうが、このままタバコの本数が減り、いつかはやめるのかと思うと少し寂しくなり、一本一本をより楽しもうと思うのだが、朝のトイレで吸うのが習慣だからか、翌日の朝まで待てないせっかちな便意に、毎夜ベランダで出るぞ出るぞさあ出るぞとお腹をぐるぐる鳴らして急かされ、冷や汗をかくレベルとあらば、楽しめるものも楽しめなくなる。リズムがもたらす良くない習慣のうちの一つだ。

コラム-私は気の利く優しい愛情深い夫

朝嫁に三千円握らされた。仕事の帰りに、切らした卵を買いに行くと言ったからである。卵はだいたい10個で200円、ラッキーな時はセールで100円で買えるし、300円もする高級品は我が家には必要ない。


当然、オムライス屋やだし巻き卵屋を経営しているわけではないので、どう見積もっても三千円もあれば、そのほとんどは余ることになるが、お釣りはどうしたらいいかなんて野暮なことは聞かない。もちろん私のお小遣いにするつもりはないし、女の子とご飯に行き、これタクシー代だからと、あわよくばを心に描きながらも下心をひた隠しにする所謂余裕のある大人を演じながら、ご飯は奢られるものと思っているどうでもいいくそガキにチップを渡すつもりもない。


例えば掃除用具や買っても買ってもすぐに紛失するボールペンなど、家の備品の足りないものを把握しといて、それらをさりげなく補填する。それが「気の利く夫」だ。そして私は気の利く夫でさらに加えて愛情深い優しい夫なので、嫁の好きなパン屋に寄って、朝ごはん用の食パンと数種類の惣菜パン、菓子パンを買って帰るのである。


嫁は大のパン好きだ。京都のパン消費量は全国一位らしいが、その一人当たりの平均値を嫁は大きく上回るだろう。それくらいパンが好きだし、朝食は必ずパンである。だから我が家のパンの消費量はアメ車のガソリンの如しで、パンの残量には注意が必要なのだ。


毎朝さりげなくパンの残りをチェックし、少なければ補填する。優しいと言われたいわけじゃない。ご機嫌を取りにいっているわけでもない。私が愛情深い気の利く夫なだけだ。


本日もパンに切手にお米にゴミ袋に、アドリブ効かせてオイスターソースまで買って帰ったはいいけれど、目的の卵を買い忘れていた。めでたし、めでたし。

 

コラム-大盛りを頼まなくなった三十半ば。カツカレーもらおうか

胃袋に詰め込めるだけ詰め込んでおけば満足できる時代は、とうの昔に過ぎ去った。つけ麺屋で値段が同じということで頼んだ大盛りの麺の量がラグビーボールくらいのボリュームだったからと言って、笑ってチャレンジできることもこの先はもう無いかもしれない。量よりも味、量よりも居心地とご飯屋さんを探すようになった30半ばの今でもボリュームたっぷりの昼食を食べたい日もたまにはある。


そんな時に必ず候補に入れたいメニューがカツカレーである。揚げたてサクサクの衣に染み込むカレーと一緒にご飯を掻き込む。カレーの香辛料と揚げたパン粉の香ばしい香りに食感、舌の上で溶ける脂身と噛むと口の中で広がる旨味が浸み出す豚は、むしろお腹の減っていない時でも食べたくなるほど魅力に溢れる。


500円で丼もうどんも焼きめしも食べられる近所の古い食堂の、カレーも同じく500円。カツカレーはと言うと50円増しの550円。カレーに50円増せば食べられるカツカレーは日本中探してもそう簡単に見つからない。


250円から300円増しであっても不思議ではないカツのトッピングがたった50円なのは、店に貼られた10年以上もそのままかと思えるほど古びたメニューからも、店主のただのミステイクではないと想像するに容易い。先代あるいは先々代から強く言われているのか、あるいは感謝の気持ちを込めたサービス品があった方が集客に良いからと、スタッフとのミーティングに次ぐミーティングで、決められた価格設定なのだろうか。


いずれにしても、特にこれが食べたいという物はなく、空腹を満たす為だけに店に来たとあってはカツカレーを注文しない理由はない。空腹にカツカレー、加えて値段もマックのセット並み。満足しないわけはない。良き日曜になりそうだと前のめりに頼んだのはいいけれど、ポロシャツのポケットにすっぽりと入るほどカツが小さく、肉が衣よりも薄く、まるでお菓子のビックカツのようであった。

 

コラム-ブラックバスも人間もプレッシャーには弱い

暇さえあれば釣りに出かけていたことが私にもあった。釣りキチ三平は全巻何度も読み込んだし、おじいさんが亡くなるシーンでは涙が止まらなかった。成人したくらいからは釣りに関する趣味はとんと無くなったが、それでも運動不足にカテゴライズされてしまっているこの頃は、趣味として始めるのもいいかもしれないと思っている。


もし本当に始めるなら鮎やイワナのような食べられる川魚やおいしい海の魚に狙いを定めたいものだが、たまにはブラックバスのようなスポーツフィッシングも悪くない。


キャッチアンドリリースが定着していたことも今は昔、琵琶湖では外来種が在来種を絶滅させると、かねてから問題視されているし、バスを釣った後に捨てるゴミ箱さえも用意されている。


生き物を大切にと教えられてきた心優しき人には、難しい選択を強いられるゴミ箱ではあると思うが、バスはとにかく獰猛で動く者を手当たり次第に食べてしまう、琵琶湖に住む魚の中で恐ろしいやつなのだ。このゴミ箱は圧倒的強者の排除によって弱者を守らんとする人々の、愛のように思えてならない。強い者には強く、弱い者には優しく、琵琶湖を守ろうとする方々は日本人の誇りのような心をきっと持っているのだと思う。


だからと言って、琵琶湖の生態系同様、外国にめっぽう弱い日本のトップも少しは見習って欲しいものだねと、伸びかけたヒゲをジャリジャリ触りながらウイスキーを飲みつつ、政治を揶揄するつもりは今回は毛頭ない。


言いたいことを完全に見失ったふらふら運転をしている自覚はあるので話を戻すが、それほどまでに獰猛なバスも、琵琶湖の釣りポイントと言われる場所のほとんどでは、すっかり警戒心を持ってしまい、ルアーにはまるで反応しないという。俗にいうハイプレッシャーというやつである。


考えもなく動く物を飲み込んでいると思われたバスでさえも、プレッシャーを掛けられると殻にこもったり逃げ出す性質を持っているのだから、頭で考える以外に武器の無い人間にとってもプレッシャーは猛毒である。


先日、会社に雇用の応募をしてきた40過ぎの方がいた。専門職として期待するなと言う方が無理なほどの資格を持っており、人手がまるで足りて無いこの会社にとって、喉から手が出るほどの人材であった。役員との面談も和気藹々と終わり、会社としても採用の意を伝えたのだが、数日後断りの連絡が入ったようだ。理由を聞くと、会社からの期待に応えられる気がしない、プレッシャーに耐えられないとのこと。


いろんな人がいる。特に採用試験なんかでは、期待されることはありがたく、嬉しいことなのが普通だと思っていたが、期待がプレッシャーとなるのもよく分かる。だけども入社前からそれに耐えられないとなると、それは自己評価が余りに低い。40オーバーで採用してくれる会社を探す方が難しいと思うのだが、いやはやいろんな人がいるもんだ。

コラム-船越英一郎と名取裕子が主役だった夢のお話

一歩外に出ると澄んだ空気が肺を満たし、眩しい朝日と共に頰に感じるほんのりとした温かさが春の訪れを、それとは対照的な、耳を切るような冷たい風、日陰にできた凍った小さな水溜りにまだまだ威力十分な冬の余力を感じる。


…などと、キラキラした季節の変わり目を楽しみ心潤む気分ではなく、身内の不幸と親友の結婚式が重なったような、やり場のわからぬ心情であった。


今朝、夢を見た。


見覚えのない路上に何やら人だかりが出来ており、人の頭と頭の間から中を覗くと酔っ払いが半裸になり大暴れしている。それを止めようとする婦人警官が名取裕子で、半裸の酔っ払いが船越英一郎船越英一郎名取裕子の手を振り払うたびに人だかりから歓声が沸き、服を一枚、また一枚と脱いでいく。


ドラマの撮影なのかリアルなのかの区別がつかぬまま、このまま船越英一郎が全裸になってしまうと見物人含めて全員が牢屋に入れられてしまうという不安と恐怖が急に湧き立ち、この場でずっと見ていたい気持ちを抑えてその場を立ち去ろうとするが、隣にいた歯が一本しかないオヤジが私の愛用する冬用サンダルを足から剥ぎ取り、船越英一郎名取裕子のいる人だかりの中心に向かって投げ入れようとするのだ。


返せ嫌だ返せ嫌だを3〜4度繰り返したのち、怒りがピークに達してしまい、投げた瞬間渾身の力を込めた蹴りを脇腹へと、強い決意と共に一点を見つめて集中し始めた時に目が覚めた。


たかが夢の中のお話ではあるが、普段は怒りをビールかハイボールと共に飲み込み、滅多なことではまず怒らない温厚な私の頭に血が上り、起きてからも2時間ほどは不機嫌に過ごしてしまった。


あの歯が一本のオヤジは一体誰だったのか。現実に会ったことがあるのかないのか分からないが、夢の中と言えど人のサンダルを奪うのは良くない。それは冬用でも夏用でも関係無いし、挙げ句の果てにそれを最も投げ入れて欲しくない場所に投げようとするのはとっても良くない。人から奪ったサンダルを履かずに捨てるなんて悪ふざけにも程がある。せめて履け、だからお前の歯は抜けるんだと、今なら言える気がする2月下旬。


どうでもいい夢の中のオヤジに午前中しばらく引っ張られるなんて、私の頭の中は既に桜が満開のようですね。

コラム-服のサイズに依存するモチベーションとストレス

こと仕事に関してですが、やれと言われると途端にやる気を失い、やらなくても良いことにこそ時間を使いたくなってしまう私ですが、今日は違いました。いつも携えているモチベーションと姿形は瓜二つですが、中身はまるで別物、例えるならキュウリとスイカぐらい違います。瓜二つだけに。


抑えきれない情熱とでも言いましょうか。溢れ出るパッションと言い直せばより伝わるかもしれません。持て余す心のエネルギーを仕事に使うなんて勿体無いし、鴨川のほとりで愛を育むカップルに、結婚観を聴いてまわりたいのですが、それは余計なお世話ですし、そもそも年齢的な意味でも誤魔化しが効かないいい大人という事実、これが何とか私を諌めてくれました。


ここまで元気があると何でも出来そうなのですが、倫理が「何でも」を抑制するようになったのは、それもやはり大人になったからでしょうか、それとも勇気や勢いが無くなったからでしょうか。どちらにしても歳をとったからと言えるでしょう。


それが良いのか悪いのかは今の段階では分からないし、将来振り返ることにして、なにも歳をとって変化を遂げたのは心だけではありません。言わずもがな肉体もそうです。


しかも肉体に関しての変化は全てマイナス面への振れのように思えます。中でも私が気になっているのは筋力の落ちに伴う、腹の出っ張りで、あぐらをかくとズボンが食い込んで少し苦しいし、そのせいもあるのでしょうが、ズボンの太もも周りの裁縫された糸がギチギチと悲鳴をあげるのです。それに引っ張られるようにふくらはぎにも適度な圧が加えられ、血液が停滞しているのがよく分かります。


ただ事じゃないと気づくのに時間はさしてかかりませんでしたが、あえてこの事態を見て見ぬ振りすることにしました。緩める(甘やかす)と大変な事になる。言葉に出さぬまでも頭の片隅にこの言葉の存在を確かに感じていたからです。


背中のお肉にそう思い込ませればそうなるという、女性の寄せ上げの逆バージョンのようなものです。もうすぐで一冬越せそうと思ったのですが、さすがにズボンの限界だろう、仕事中にはち切れてしまうと誇りと職を失い、代わりに一生涯の恥を得ることになるという嫁の言葉で、ズボンを新調することとなりました。


お陰で、あぐらがかけるし、落ちたものをしゃがんで拾えるし、下半身の血の巡りが良くなるしと、ストレスがまるでなくなったのです。


本日の良質なモチベーションは、血液の巡りが良くなって脳にまで酸素が行き届くし、無駄に裂けや破れに対する無駄な不安を取り除けたことによるものなので、冬のズボン新調は結果的に良かったとも思うのですが、たぶん春夏用のズボンももう履けんかもなという一抹の不安を残してはいるのです。できることならスリムな服装がトレンドである時代は早めに去ってほしいと願ってやまない今日この頃でした。