立ち聞きweblog

待ち合わせで相手が遅れてる時とか、何故か眠れない夜とか、通勤や通学の電車とかで流し読みして下さい。

痛くはないが、痒くはあった

ほらほら、あの越前蟹の看板の…


そこまで言葉にして私はハッとした。北陸に向かうサンダーバードを京都駅で待っていると、親しくはないが知らない仲でもなく、仮に一緒に銭湯に行ったとしたなら、下だけでなく、お腹周りのお肉とついでに乳首まで隠したくなるような、難しい関係の知人が並んでいるのが見えた。当然声はかけないし、なるべく気づかないふりをしながら自由席に乗り込んだ。


車内はそこそこの混み具合で私の好きな通路側しか空いていない。適当に腰を下ろしかけようときたシートの通路挟んで向かい側にその彼が座っていた。どうやらまだ気づいていない、今なら移動がと少しの間思考を巡らす間に目が合ってしまったドーモドーモ、まさかこんなところで会うなんて、気が合いますね、と今気づいた感じで軽く挨拶して始まった変な空気のふたり旅物語である。


彼は今にも読み出さんと手に取っていた小説を前のネットの中に入れ、体半分こちらに向けるような体勢をとった。彼の”心意気”を無視するわけにもいかず、また、寝たふりをするタイミングすら与えられぬまま、お互い見えない暗闇を手探りで進むような、ふわふわ、ふらふらした会話が始まった。まずはお互いの行き先を確認し、終点金沢まで一緒であることがわかった時に腹をくくった。しょうがない、相手が寝たふり、もしくは本を読み出すまでがんばろう。そんな心意気ではあったし、うまくやれた方だと思う。実際に福井辺りまで来ると、打ち解ける程ではないが気まずい感じは多少なりとも薄れつつあった。


これは簡単ですね、そう思った瞬間に出た言葉が「ほらほら、あの越前蟹の看板の…」である。油断であった。2アウトランナー無しから5点差がひっくり返ることもある。最後まで慎重に事を進めるべきであった。


ここ福井の越前蟹は寒い季節が旬で、寒いと言えば北の方で、蟹工船という小説や映画があったし…しかしだからと言って越前蟹ではないと思う。電車から見えた看板に書かれていたのは北前船。全く関係無いとは言わないが決して近くない間違いを起こした時、どうせなら、何言ってんのと肩をパシッと叩いてくれれば良かったし、電車の揺れに合わせて聞こえぬ振りをしてくれたらもっと良かった。


彼が発した言葉は、そう…ですかね、であった。そこから彼は小説を読み始め、何だか元気がなくなったようにも思えたし、全部私が悪いのは認めるが、言い間違いくらい誰だってあるでしょうよ。別れた彼女が越前蟹が好きだったとか、聞くだけで蕁麻疹が出るような蟹アレルギーがあるとか、きっとそういうタブーを犯してしまったのならちゃんと謝りたいのだが、その後話しかけることはできなかった。


仲良くなりたいわけではないが、少し悲しい気持ちで眠ったふりをすることしかできなかった台風目前の里帰りでの出来事だった。しかし、あの悪くなる一方の天気予報でも旅行客があんなに多いなんて、台風なんてどこ吹く風、ですね。それでは。