立ち聞きweblog

待ち合わせで相手が遅れてる時とか、何故か眠れない夜とか、通勤や通学の電車とかで流し読みして下さい。

引退宣言する人の想いを

ようやっと見つかったトイレが長蛇の列で、痛みにも近い尿意を体くねらせ我慢する夢から目が覚めたのは、目覚ましを設定した時間にはまだ早く、布団の中でもう少しだけ微睡みを堪能する時間的な余裕はあるが、限界を迎えた尿意に対する体の余裕はない。


足早にトイレに駆け込み便座に腰掛ける。小をするのに腰掛けるのも自然とできるようになったのはいいとして、出せども出せども終わらぬ用事に、夏が過ぎ去りすでに夜は秋のものとなっていることをしみじみと感じた。


すっかり目が覚めたため、どうしようもなくレッドブルをちびちび飲み、見るでもなく朝のニュースをとりあえずはぼんやり眺めて、10月の三連休に想いを高ぶらせながらアムロの引退のニュースに耳を傾けた。


私はガンダムを通って来なかったので、アムロと言えば安室なのだが、世代的にほとんどどんぴしゃり、周りの女子が異性をビンビンに意識し、大人な女性に憧れを抱き始めた時に、学校で眉剃り禁止、ミニスカート禁止令が出るほど世は安室に染まった。俗に言うアムラー現象である。


アムラーという言葉と引き合いに出されるのはまずシノラー、わかる人にはわかる話なのでアムラーvsシノラー談義も、お酒を嗜みながら中学時代の思い出とともに一緒に摘むのも悪くはないのだが、思った以上に思い出が薄れているし、よくよく考えるとそこまで興味が無かったような気さえし出したので、これはまた次の機会にとっておくとするが、今回私が引っかかるのは引退宣言についてである。


引退宣言はケジメなのか。


別に辞めたきゃ黙って居なくなればいいし、宣言しなけりゃ戻りたくなればしれっと戻れるし、あれ、辞めてたんじゃなかったのと言われても、いいえ、鋭気を養っていだだけですよーんと言えばそれで知らぬ顔して活動開始である。


わざわざ引退宣言することは本人にとってなんのメリットが、と思うのである。もちろんファンは悲しみにくれるだろうし、最後まで応援しようという気になるのだろうが、いつか戻ってくるという 期待 や 可能性 を 希望 として待っていたいというファンもいるだろう。いつまでも待っていたいのである。いつか戻ってくると、思いを手紙に綴りながら待ちたいのである。


そんなファンとの関係もありじゃないかと言いたいけれど、結局は本人の心意気の問題かとも思うので、どのような形で終わりを告げるのも本人の自由だし、CDの1枚も持ってない私が何か言うのは1番違うのでこの話はこれにて終わりにします。それでは。