立ち聞きweblog

待ち合わせで相手が遅れてる時とか、何故か眠れない夜とか、通勤や通学の電車とかで流し読みして下さい。

苦言

日本っぽいそれらしい店名に、木製ででかでかと掲げた看板は外国人の心をくすぐるのだろうか。うちから徒歩10分圏内で大きな交差点の向こう側にいつのころか位置しているそのお店は、飲食店であることは間違いないが、外から見るだけでは何屋かさっぱりわからない。蕎麦屋でも天ぷら屋でも無さそうだし、かと言って割烹やお寿司屋と言うほどの高級感はないというか雰囲気が漂ってこない。


たまたま店主が戸を開けたタイミングで少し離れたところから中を覗くと高級和牛と書かれた暖簾が見えた。神戸牛なら神戸牛、松坂牛なら松坂牛と、ブランド名をでかでかと掲げたらいいと思うのだが、あえて高級和牛と書くあたり、なかなかできる店…とでも思えばいいのだろうか、いやそうは言えないだろう。余計なお世話だが、まずそこは見直すべきじゃなかろうか。


日本人を相手にするのであればその店のスタンスはハリボテであることは問うまでもなく、家賃の高い京都でやっていくには豆腐でサイに立ち向かうほど困難に思える。ならばなぜそこに佇んでいられるのだろうか。


私の知る限り2年はそこにあるのだが、それが不思議で仕方がなかったのだが、先日嫁がタクシーの運ちゃんからその事実を聞かされたようだ。中国人が経営する中国人観光客のための和食屋さん、らしい。なるほど、府には落ちる。


そのお店、幸か不幸か私の通勤に使う道の途中にあり、帰宅時にヒーヒー言いながら自転車漕いでもうすぐ家に着くという時に、観光バスが二台店の前に着き、わらわらと中国人らしき集団が歩道を塞いでいる瞬間に何度も出くわした。そのたびに心の中ではメラメラと怒りの炎が強火で燃えていたし、へらへらしている店主の鼻の穴をハバネロスープをたっぷり含んだ高野豆腐で塞ぐイメージを明確に抱いていた。断っておくが私は中国人は別に嫌いではないのだが、その店に来る中国人に対してはどうかとは思っている。観光に来るのはいいとしても、ここは日本である。日本には日本の文化があるし、そこは日本のルールに合わせるべきであると思うのである。


タクシーの運ちゃんも交通量のかなり多い道でしかも交差点付近での観光バスの駐停車に苦言を呈していたらしいし、ルールはルールである。ただ、日本への観光客が多いことから、観光客向けの飲食店を作ってしまう行動力と度胸はすごいとも思う。そこで仮に成功しているとしても決して羨ましいとは思わないが。

朝起きれない、夜眠れないあなたに読んで欲しい、今回だけはどうぞお願い

大事な打ち合わせで寝落ちしたとか、打ち合わせ先の降りる駅を夢の中でやり過ごしてしまったとか、打ち合わせがあるのを忘れて寝てたとか、常日頃から他人のミスにも自分のミスにも大らかな私ですが、睡眠が原因のポカはほとんどないと自負している。


そりゃあ飲み過ぎからの二日酔いで起きれずに休みの予定をキャンセルしたとか、漫画喫茶で読み漁ってやるぞと気合いを入れて気になっていたマンガ10冊ほどをブースに持ち込んだはいいが、思った感じの内容ではなく、気持ちがついてこないために睡魔に負けて、2冊目にすら手が届かずに時間が来るまで睡眠を貪ったことくらいは何度もあるが、こと仕事や学業に関しては、ほとんどゼロと言えるほど寝坊したことが無いことに、関心されることは少なくない。


そこで、いつもは拾われるでも掬われるでもなく溝から川へ、川から海へと垂れ流され続けるこのブログで、皆様にここぞという時の寝坊しないコツをお伝えし、特に、まさに遅刻確定の通勤、通学中の電車の中で読んでいるだれか1人でいいのでお役に立てればという誰かを想ったエッセンスを加えて本日はお届けしたいと思っているのです。


まずは気持ちである。なんだ精神論かと鼻で笑う人もいるだろう。笑いたい人は笑いながらで結構だから、まずはそこを見直してみて欲しい。死ぬ気で起きること。起きれなければ死ぬと、本気で思えるなら必ず起きることができる。ベッドに入った時にでも絶対に何時に起きると強く強く心に念じるのである。それだけでかなりの効果が見込めるはずである。


そして寝るなら寝る、寝ないなら寝ないを徹底する。つまりは時間いっぱいの二度寝は禁止。仮に目覚ましの20分前に目が覚めてしまったのなら起きてしまった方がいい。20分程度なら深い眠りにつくことはなかなかに難しく、眠ったか眠ってないかのまどろみの中で目覚ましに起こされると、体が眠れていないと錯覚してしまい、午前中、体調次第では1日中眠気がとれない場合もある。私のように、2時間も前に尿意で目覚めてしまう場合はもう一度寝るべきだとは思うが。


基本的にはこの2つだけで十分な効果が期待できるのだが、ついでにもう一つ付け加えると、寝るときに嫌なことは考えない。仕事に恋に遊びに精を出していると、いろんな悩みや恨み、怒りに僻みにもんもんとする夜もあると思うが、深夜に悩んでも仕方ない。考えるのはヤメ、憧れの異性と威勢よく伊勢にでも行く妄想でもしながらリラックスして眠るべきである。眠れぬ夜ほど悩み解決には向かない時間はない。


これらが寝坊しない私の習慣のようなものである。今日も今日とて夕方までにやって出しとけよと言われた仕事をすっかり失念。気づいた時にはすでに家でディナータイムだったので、頭下げてさーせんでなんとか押し通してやろうと決意して本日も眠ります。


近いうちに、ミスした時に頭下げて済ませることができればそれは勝ちであるという説を発表しようと思います。それでは。

ドラえもんと私と無駄な時間と

ドローンを見るたびタケコプターを思い出し、スマホの音声入力の精度向上がほんやくコンニャクの必要性を無くし始めているし、幼い頃に食い入るように見ていたドラえもんの世界観と現実が少しずつではあるが重なり始めていると考えるにはまだ気が早いのだろうか。


バリバリ仕事をこなし、さらには趣味を謳歌し遊びにも一生懸命な人ほど、無駄な時間をできる限り削ぎ落とせという。


無駄な時間


無駄な時間とはなかなか判断が難しい部分があると思うのだが、例えば私の場合、とりあえずは削れる時間はどこだろうと考えると、晩御飯の後のボーッと見ているテレビの時間、寝る前のネットサーフィンの二つに絞られる。


これらを資格の勉強やペン習字、マナー教室で自分を成長させる鍛錬の時間、もしくは、我が家を出てすぐのところにおでんの大根を捨てた奴のワラ人形を作ったり、仕事中の荷物の積み下ろしだとどう見てもわかるのに駐禁を切ろうと遠くから目を光らせている緑の人たちを集めて説教したり、ひたすらテトリスしたりという趣味の時間に割くことができれば、より濃い1日を過ごせるのかもしれない。


ただ、一見無駄に見えるこれらの時間が殊の外プラスに作用している可能性はゼロではない。ボーッと何も考えずテレビを見ている時間は、ネットなど自分の意思で何かを検索する場合とは違い、思いも寄らない新たな情報に感化され新たな世界が覗けるかもしれないし、寝る前のネットサーフィンはスマホの光が睡眠の質を悪化させるとか何とか言われているが、私にはむしろ寝つきがすこぶる良くなり、気づかぬうちに夢の世界をサーフィンする幸せな夜を過ごしている。


一概にどれも無駄だとは言い切れないし、無駄な時間ほど大事にしたい5つの理由というタイトルでネットに記事を書けばそれなりに読まれそうではあるが、無駄な時間に固執したい理由が、ただ単にダラける時間が何より好きだし、楽したいという私の本質である。無駄な時間を無くさぬためにも、なくせればなと思うのは移動時間で、だからタイムマシーンよりもどこでもドアができて欲しいと切に願うのである。それでは。

気は病から、有酸素運動のススメ

いつもの起床時間よりずっと早くに目覚めたのは、最近恒例になりつつある明け方に催してどうしようもない尿意のためなのですが、隣に寝ている嫁を起こさぬようゆっくりゆっくり起き上がり、静かに部屋を出てトイレへ向かい、便座に座って用を足しながら、これまた腸にたまったガスを音を立てぬよう慎重に放出。いつも通りの流れ作業であるが、いつもと違ったのは、その時に、膀胱でもなく腸でもなく、腰に違和感を感じたのでした。


大袈裟に言っても痛みとは到底呼べぬ、ただの違和感でしかないが、気にしないで過ごせるレベルでもなく、そこに確かにいるという存在感が、私の中のいつも低いモチベーションをさらに引き下げているようです。楽しいことや明るいことを考えながらもう一眠りしよう、そう思ったまでは良かったのですが、一瞬頭をよぎったアニマル浜口の気合いだ、が寝起きで回らぬ頭の中をぐるぐると回りに回り、耳元で聞こえてくるような感覚に陥って、結果寝付けなくなるという、悲惨な結果を招いてしまいました。


無情にもその時を伝えるスマホの目覚ましが鳴り、二つの意味で重い腰を上げ、朝の準備に取り掛かったのですが、上がらぬモチベーションに朝ごはんも昨晩の残りのうどんぐらいしか喉を通らず、週明け早々良くない朝を迎えてしまった次第です。


だからと言って、この程度の不調でお休みイタダキマスと言える程の甘い仕事なんてこの世に皆無だと思うし、起きてから頭の中でまだ鳴り止まないアニマル浜口の気合いだを改めて心の中で何度も唱和し、自分を奮い立たせてから会社に向かって自転車をこぎ始めました。


この時の私を例えるなら、シーズン初めに、調整不足でベンチにすら座れない助っ人外国人のようなものでして、用途無しの穀潰しと言う形容がぴったりですが、連休明けは休まないという限りなく孔子に近い、高い志と信条以外、何一つとして胸を張れることはありませんでした。


いつも漕ぐ自転車のペダルですら何倍も重く感じ、さすがにこれでは仕事にならんだろうと察し、会社までの道すがら、荒治療に取り組むことにしました。その荒治療とのは、息が切れるほど自転車を漕ぐこと。


あの精神分析学者のフロイト(だったと記憶している)が、気持ちが落ちて上がらないのは抑圧エネルギーが心を支配しているからと言ったそうですが、この心の中の抑圧エネルギーを減らすために有効なのが有酸素運動だと言われています。


なのでいつもより強めにペダルを漕いで、吸うより吐くのを意識して呼吸していたら、あら不思議。会社近くでは元気になっていました、というお話です。


皆様も辛い朝を迎えた時ほど有酸素運動をしてみてはいかがでしょうか。


追伸
うっすら汗ばみ喉が渇いたし、いつもよりずっと早く着いたのでコンビニでレッドブルを買おうとしたのですが、財布忘れたことに気づいた時にはもうレジで、可愛い店員さんに怪訝な顔をされ、またそこで少し心が沈んだ月曜朝でした。それでは。

無欲の当たり

用事で外出するときにはしとしと雨が降り、帰ってきたらば雨が止み空は明るくなり、嫁のお姉さんの娘が来るとなったらまた雨が降り出す、京都の言葉で言うとうっとうしい天気の週末が二週続いている。雨の日の日中、家にいると猛烈な眠気が襲って来る体質であるとここ1〜2年でわかったのだが、友人から頂いた、味覚に障害が残りそうなほどに辛い柿の種は、濃いコーヒーやレッドブルなんかよりも眠気に効果があると知った昼下がり、嫁はしきりにナナニー、ナナニーと連呼している。


何か卑猥な言葉かそれとも週末の度に降る雨に頭をやられたかとも思ったが、こちらは無料で漫画の読めるアプリを最近導入し、休みのうちに貪り読みたいので、とりあえず、だよね、へへへ、と適当に相槌入れて続きを読み始めたのだが、誕生日だからナナニーと聞いてようやくピンときた。7−2、競馬の予想である。そうか、今日は天皇賞、先週だか先々週だかに、お義父さんが買うから欲しかったら言ってなと言われていたやつである。実際に買ったわけではないが、暇でテレビをつけたらちょうどスタート前だったようで、がんばれがんばれナナニー、とエールを始めたようである。


昔から、酒博打女は芸の肥やしと言われ、男はそれを経験して一人前になるとも言われることもある。それはまあ、方便だろうとは思うのだが、飲む打つ買うを一回りもふた回りも経験している人に男の魅力というかロマンに近しいものを感じるのも事実。男たるものと言われたくはないが、博打の打ち方の一つくらいは知っていてもいいと思うが、競馬に関しては、勝ったことがなければ負けたこともない、そもそも買い方もわからぬドがつく素人である。


小さく買って長く遊ぶか、ここぞという一番で大張りするのか、いろんな勝負の仕方があると思うのだが、もしも買うなら本気で当てにいく方が面白いに決まっている。

 

馬の成績、その日の馬場、気候、前のレースから今回のレースまでの間隔、馬の体調全てを考慮して当てにいくのが競馬の楽しいところなんじゃないのとそれっぽい講釈を垂れてみたし、そもそも誕生日だからって予想した7−2が当たるわけ…当たりでした。こんなところで運を使うあたりが私の嫁らしいし、どうせ買ったときには当たらないんだろうなと思うのです。天気も競馬も当たるも八卦当らぬも八卦ということで。それでは。

偽物と本物の見分けはつきにくい

誓いを立てては破り、立てては破りしていると、いい加減神や仏も呆れて願いを叶えるどころか聞く耳すら持たなくなる。ほとんどの人はこれに当てはまるのではないだろうか。その点私はいざという時のために、誓いや願いは、ごくごくたまにしかしない。


そのたまにと言うのはお腹の調子が悪い時に他ならない。お腹を壊し下からも上からも出るものはなくなったが、それでも治まらぬ腹痛にどうしようもなくトイレに座っている時、無意識で祈っていることがある。神へか仏へかはわからぬが、とにかくごめんなさい、お願いします、を心から何度も何度も繰り返し唱えていることは半年に一度くらいならある。


酔い過ぎた時もそう。胃の中のものを全部出せども、治まらぬ吐き気に胃袋丸ごと飛び出すんじゃないかという程、トイレでえずいている時にも、訳もわからず何かにごめんなさい、もうしませんを繰り返すことがある。もうしませんと言って繰り返してはいるのだが、どうやらまだ私はトイレの神様には幾度もお願いしているようである。トイレといえど神は神、何度も同じ過ちを繰り返すのはきっと良くないし、都合のいい時にだけ神を頼るのはもっとよくない。けれどもお金持ちになりたいや、恋愛が成就しますようにという欲望丸出しのおこがましい願いではないので、いざという時の祈りは通じるのではないかと思っている。


私の会社には懇意にしている議員さんがいる。この前の選挙でも社内でその候補者のビラが配られていたのだが、とある社員さんはそのビラを受け取るや否やゴミ箱へダンク。よっぽど嫌いなのかなと思いきや、こんなもん寄越すな、根っからの支持者やねんと。…本当の支持者を見た気がしたし、かっこいいとすら思った。


遠い昔キリシタンをあぶり出すためキリストや聖母マリアの絵を踏ませたという。俗に言う踏み絵である。本当の信者であるなら躊躇いもなく踏んだのではないだろうか。踏めないとキリスト教信者であるとされキリスト教から遠ざけられてしまうし、踏んでその先隠れてでも祈りを捧げるのが本当の信仰だったのではと思ってしまう。


目に見えるものが全てではないし、見えない部分が神とか仏なのではと言いたかったが時間もなくなってきたので、今夜はこのあたりで。それでは。

来年は戌年で、私は犬好きの猫派である

この季節の夕方の寒さが当時の記憶を呼び覚ます。あれは確か秋から冬へ入れ替わるくらいの季節だったように思う。


犬は好きだしかわいいと思うが、私は断然猫派である。実家で猫を飼い始めてからなので十数年間猫派だということになるが、幼い頃はどちらかと言えば犬好きだったと記憶している。


まだ私がランドセルを背負っていた頃、子犬が我が家の庭に迷い込んで来たことがあった。餌を持たぬ私にもよく鼻を鳴らしてすり寄って来た。私の家は両親共働きで祖父母も離れて暮らすため、世話できないという理由から、成人して家を出るまでペットを飼ったことはなく、だからなおさらなのだとは思うが、動物を飼いたいという欲求は常にあった。


そこにきてこの迷い犬。キャントヘルプフォーリングインラブ、愛さずにはいられないのである。


いつも玄関横の植え込みをベッド代わりにしていて、駆け足で小学校から帰ると首をもたげて尻尾を振っていた。もちろん飼っていたわけではないので鎖に繋がれてはいないが、それでも毎日同じ場所で偽の飼い主を待つかわいいヤツだった。が、2〜3日後のこと、その日もいつも通り学校から帰ると、植え込みに居たという形跡だけ残して居なくなった。短い間だったが楽しかった分、相対的に迫ってくる悲しみと寂しさで涙をこらえきれず流した記憶がある。


それからというもの、幾度となく両親にペットへの想いを姉と共にプレゼンしてきたが、想い届かずついにはペットと暮らすことなく高校卒業し、家を出た。それが何の因果か、それから数年後に今度はおそらく生まれたての猫が二匹家の庭に住み着き、今度は両親に受け入れられて飼うこととなったようだ。要はあれか、私がペットのようなものだったから面倒みきれないとかそういうことなのかと、今なら聞ける気がするが、それはまあどうでもいいので置いておくとして、それからである。猫に心を持って行かれて私が断固猫派となったのは。


閑話休題、今年の終わりがチラチラ見え始めているが、そろそろ意識しなければならない日本の面倒な風習と言えば年賀状である。会社の年賀状のデザインを偉そうな人から打診され、他の仕事やるよりは断然ありがたいと二つ返事でOKしたはいいが、ヘタに他所のデザインを真似てしまうと会社の名を落とすし、完全オリジナリティで進行することにした。来年は戌年。ならばまずは犬の画像だろうと、犬好きの友人に会社のメアドを教えて数枚送ってくれよとお願いすると、いいよの返事。


数時間後に送られてきたファイルにウイルスの文字。いやいや友人よ、そんなしょうもないいたずらに誰がビビるかよ…無いとはわかっているが、それでも会社のパソコンとなるとクリックする手が固まってしまった。念のため友人に尋ねると、


それ犬の名前、俺ブルース・ウイルス好きだから。


紛らわしいが名前なら仕方がないが、多分ウィリスが正解なんだよと残酷なお知らせはできずにいるのは、まあ名前だし間違いとかいうことでは別にないと思うからなのである。風邪引いてネコむなんてことがあるかも知れないので、皆さんも年賀状は早めに準備するのをお勧めします。それでは。