立ち聞きweblog

待ち合わせで相手が遅れてる時とか、何故か眠れない夜とか、通勤や通学の電車とかで流し読みして下さい。

歳をとるとたくさん眠れなくなると言ったのはどこのどいつか

かれこれ10年近く前だろうか。串カツ屋が2度付け禁止と言うならば、その時の私は2度寝禁止で日に4時間も眠れば問題なく過ごせていた。正直無敵だと思っていた。ナポレオンにすら手が届くはずだったし、いつか睡眠時間をゼロにできると思っていたのはいくら何でも無理があると言っても、快楽でもあり恐怖にもなりうる人間の三大欲求の中の一つ、睡眠に対してはそこそこに強かった。


それから約10年程経ち、今や6時間睡眠では飽き足らず、ほっときゃ7時間、目覚ましかけなきゃ8時間はノンストップで眠り抜ける自信があるし、2度寝3度寝4度寝くらいまでは常に射程圏内のヘッポコスナイパーに成り下がっている。


歳をとると眠れなくなる論で言うと、私の睡眠時間はそろそろ3時間を切るくらいでもおかしくはないはずなのだが…歳をとると眠れなくなる論を言い出した奴に問いただしてみたい。歳とってきたのに、睡眠時間が増えてますよって。がっちり寝ないと起きられませんよって。歳をとると眠れなくなる論に当てはまってないようですが、私は特殊な体質なんですかと聞いてみたくなる。


どんな回答が返ってくるのか、時間が欲しいが眠気に勝てる気がしない私に、10分仮眠しようとして6時間眠ってしまう私にどんな言い訳をしだすか楽しみである。


おおよそ、個人差がある、疲労やストレスが原因、星回りが良くないなどと占い師と医者を足して二で割ったようなことを言われ、そんな事を考えている暇があったら睡眠に当てたらどうかね、と鼻で笑われ相手にもされないだろう。


そもそも歳をとると眠れなくなるなる論を言い出したのは誰なのだろうか。医者か科学者かはたまた占い師か、そこを突き止めたいが時間がかかりそうなので、休憩がてらまずは10分だけ仮眠をとることにします。それでは。

 

秋の夜長メガネ

昨日夜にシャワーをした後くらいからだろうか。左の目頭から1cmほど中へ寄ったところに違和感はあったが、気にせず触らずが信条の私なので寝る前にポテチを数枚パリポリいただいて、グッスリ眠って朝起きると、そこにはしっかりとした吹き出物ができた。(青春真っ盛りの若い男女が洗顔フォームにこだわり始めるきっかけとなるニキビと主張するには少しばかり窮屈な思いがするし、この歳を考えると吹き出物と言った方がしっくりくる)


顔が見えぬブログの向こう側で何が起きていようと、読者の人達には1ミリたりとも関係ないし興味も無かろうが、実は私、メガネを掛けているのである。感の良い方やメガネの方はすでにお気づきかと思うのだが、メガネは本来、耳で引っ掛け鼻で支えるのである。メガネの鼻の部分を組体操の扇で例えると、真ん中の人である。無ければバランス崩してメガネとして役割を果たすことができず、つまりはこの部分はメガネの重みがズッシリ伝わる重要な部分なのである。


メガネを外せば生活に支障はでるからコンタクトをとも思うのだが、私は近視に加えて極度のドライアイ。コンタクトをつけるとしばらくの間は良く見えるかも知れないが、2〜3時間も経てば視界がボヤけ、その頃には目薬点すも焼け石に水状態と化してしまうのは目に見えて明らかである。本当の意味では見えないのだが。


デスクワークでお給金をいただいている限り、視力矯正は必須である。レーシックする程の勇気はないし、コンタクトは例の件で無理となればほとんど一択でメガネが必須である。メガネが無ければ安全面も金銭面も生活すらも危ぶまれるという中、この吹き出物はほとんど拷問に近い。乗せるだけで鈍い痛みが生じるし、メガネの位置を調整しても、いつもの癖で考えるときにメガネを触ってもピリリと刺激的でただただ煩わしい。さらに加えてこれだけ刺激を与え続ければ、明日にはさらに巨大化しそうだし、だけどもメガネを外せない。悪循環の波にゆらゆらと流され抵抗できずにいる秋の夜長である。

不調な日ほど低めを噛みしめ

首元辺りの湿り気が寝汗を多めにかいていたのを物語り、だから気持ちのいい寝起きとは言えるはずもなく、明け方の厳しい冷え込みのためにトイレの窓を閉めて大きい方の用を足すと、換気扇のパワーが足りていないのか、トイレ周辺がやや臭うという喜ばしくない事態になったりと、朝からリズムに乗れてはなく、やや不調気味である。


長年生きていると朝の目覚めの感じで大体1日の調子がわかるもの。優良可不可で判定したなら、今日はまぎれもない可である。出勤中に熟して潰れかけた銀杏を自転車で踏んだ拍子に運悪く胸ポケットに入ってしまったり、躾の悪いどこかの飼い犬に付きまとわれ吠えられ続けて避けようとした拍子に街路樹にぶつかり、銀杏が大量に降ってきてその中の一つが運悪く胸ポケットに入ることなどがなければ、不可にはならずにほぼ可で過ごせるだろう。


悪くはないが良くはない、これくらいがちょうどいいのである。もちろん良や優を目指すべきだとも思うのだが、毎日のハードルをなるべく低く設定しておくことが、実は幸せへの近道でないかとも思うのだ。


今日は朝からテレビでLINEの特集をしていて、ついつい見入ってしまったのだが、サラリーマンを中心としたお父さんへ、家族とのLINEグループをどれだけ活用しているかのインタビューしていた。その中のお父さんの一人が、画像をアップしていたのだが、既読が付いただけで幸せそうな表情と、「今日はご飯が美味しく食べれます」というコメント。


何したらそんな扱いされることになるのかと同情しかけたのだが、よくよく考えると、上へ上へと高みを目指す人が気にも留めないことを幸せと噛み締めているのは、得していると言えるのではないか。いやいや、得どころか圧勝である。当たり前のことに幸せを感じることができることほど幸せなことはない。幸せはなるものではなく感じるものと嫁の知り合いが言っていたらしいが、しみじみとわかる気がするし、だから、コンビニで1000円しかないと思っていたのに実は2000円入っていたことを幸せに感じようと思います。それでは。

 

 

エンターテイメントの自給自足

他人の感情を思い通りに操るのは難しい。自分の喜怒哀楽ですらその時の気分や環境でコロリコロリと変わるのに、ましてや他人の感情をコントロールするなんてと思うのだが、だからこそ、人は感動を求めて、ドラマや映画、お笑いや音楽などの所謂エンターテイメントが商売として成り立つのである。


昔から、差別や偏見が嫌いで差別や偏見を持った人がいたら差別し偏見を持ってきたが、これは職業に対する考え方も似ていて、基本的には全職業に優劣や順位付けは出来ないと思っている。


ただ例外はあり、命を救う医療関係者と感動を提供するエンターテイナーだけはワン、ツーだと思っている。喜怒哀楽と衣食住と生死は関係しているし、ありとあらゆる仕事が最終的にそこに通じるという考え方もできるが。


くだらないブログばっかり書いてないで少しはお金を稼いでこいと嫁と嫁のご両親にふんどし一丁で寒空の中放り出されるのも時間の問題かもと、心に秋雨前線以上の暗雲が日に日に立ちこめているが、どんよりした時もエンターテイメント一つでカラッとすることもあるし、それが人を動かす偉大なエネルギーとなっていると考えると、それはやはり生きる上で重要なものだとも思うのである。


このブログ、気づけばもうすぐ200本、今月中にもその数字をクリアする。本数は私にとっては続けるためのただの指標でしかないし、普段からそこまで気にはしないのだが本数が増えるごとに毎日のルーティンに深く刻まれ、仕事が忙しい時にも続けてこれたのは文章を書くのが好きであるということと、制限なく自由気ままなに過ごせる場所だから現実逃避ができるのである。


ある意味で私にとって絶好のエンターテイメントで、それを自給自足をしているようなもんだし、エンターテイナー気分を味わいながら、今回のドラマでナンバーワンの刑事ゆがみをポテチつまみながら、上から目線で小首傾げながら見ようと思います。それでは。

中学時代のふわっとした記憶

もう20年近く前になるだろうか。


腰辺りまで積もった雪が溶け始め、水っぽくなり重くシャリシャリとした雪がまだまだ残る歩道が歩きにくく、その道ではハイカットのスニーカーの防御力はほとんど無に近く、隙間から入って来る雪水が指先の感覚を麻痺させる。だがそれは北陸では決して珍しくはないただの冬の日のことだった。


ノートか消しゴムか赤ペンか、はたまたラブレターを書くための便箋だったかは覚えてはいないが、夕食後に何かを求めて地元の本屋を訪れた。目的のものを買えたのかどうかは忘れたが、店を出ると溶けかけた大量の雪が溝を塞ぎ、融雪装置から出る水と雪解け水が排水量を上回ったことで、メダカや金魚くらいなら飼えそうなほど十分な水量の水溜りが駐車場にできていた。これも北陸ではあまり珍しくはない。


わずかな店の明かりと街灯で水溜りの底に一瞬何かが見えた気がして目を凝らすと当時の中学生には大金の1000円札であった。アスファルトにピタリと張り付いているようだが、そこは中学生、氷水に手をつけるのが恐怖か修行か治療としか捉えられない今の私とは勢いが違い、躊躇なく、じゃぶじゃぶっと手を突っ込んで破れないように丁寧にピラリとすくい上げた。


もう時効だろうし正直言うと、その時は届けようという気持ちは1ミリたりとも無かった。夢にまで見たというと言い過ぎかも知れないが、月に何度もお目にかかれない1000円札が手に入ったと、心の中ではグリコの看板のように両手を上げてスキップして帰宅した。


帰ってからが本当の勝負であった。親に見つかれば怒られ、有無を言わさず回収されるのは目に見えていたし、だからと言って乾かさないわけにもいかないから、できるだけ目につかない隠し場所を探した結果、私の部屋のカーテンを閉め切った窓に貼り付けておくということだった。そこで一晩も置けば大丈夫だろうと踊る心をいさめながら眠りについたのだが、次の日あれだけ楽しみにしていた臨時収入をすっかり失念していたのは自分でも信じられないし、その後その1000円札を使ったのか親に持ってかれたのかさえ全く記憶に残っておらず、もしかするとただの夢だった気さえしているが、それがたまに思い出す中学時代の思い出である。


いや、あの1000円があればさっき800円足りずに諦めたお米が買えたなって。

 

温まるのが遅い寝起き

一年に何度も無い過ごしやすい気候を予感させる朝日昇るきれいな青空をもってしても寝起きの怠さを吹き飛ばすには至らない。朝のニュース番組の可愛らしいアナウンサーのしゃべる言葉が耳から入って脳で消化されずにため息と共に外に出て行くのを鑑みると、いつになく重く感じる頭は脳味噌の量が増えたわけではなさそうである。


どうしてこうも朝はエンジンが温まるのに時間がかかるのか。良い一日を過ごすため夜は眠くなった時には無理せず眠るし、それに加えて最近やたらと寝つきもいい。寝酒と称して嗜むお酒もここのところ控えているし、睡眠が浅くなる要因はいろいろと排除できている。グッスリ眠ってパッと起きるのができなくなったのはやはり体力的な問題が大きな理由だろうが、それ以外にも一つ気になる点がある。嫁が言うに、最近特によくイビキをかくようになったそうな。


人に迷惑を掛けずに生きるなんてほぼ不可能である。だからといって、掛けなくていいもんを進んで掛けるような人にはなりたくはないし、防げる迷惑は予防しながらできるだけ気をつけて生活しているのだが、それでも無意識で夜な夜な嫁にイビキで攻撃を仕掛けているのである。


嫁だから何してもいいということはないのだが、もしも、隣にいるのが嫁じゃなく、対面しているだけでワキ汗手汗がビッショビショになる、知り合い以上友達未満の男性だったらと思うと震えが止まらない。中途半端な知り合い男性と一緒に寝てると考えるともっと震えが止まらない。


朝起きて、昨日イビキかいてましたよ、と言われたなら、小さく壊れやすいハートの私は、その晩からストレス解消の重要な手段である、睡眠自体がトラウマとなりストレスとなる。


もちろん、イビキを聞いていた方が精神的にも肉体的にも効いているのだろうが。


百害あって一利なしのイビキを解消するため、まずはメタボからの脱却を目標に、今年いっぱいがんばりたいと思います。それでは。

悩んでいる風ブログ

少なくとも私のメタボことメタボリックシンドロームはただの甘えの産物であるのは間違いない。シンドロームというネーミングはどことなく恐怖感を駆り立て、そう呼ばれると何か重大な病を背負ってしまったかのような危機感を抱くが、気がつけばメタボなんてケツにちゃんをつけたくなるような可愛らしい呼び名で世に広まったのがよろしくないのではないか。


チョコにポテチにアイスに柿の種に、歳をおうたび多様化していくおやつに私はメタボ街道まっしぐら、2年前の心配されるほど、10代20代にもつけられたことないガリという称号がつけられたのはもはやただの過去、もしかしたら記憶違いではないかとすら思っている。


遥か昔小学生だったころ、我が町に一つしかなかったコンビニで100円以内のお菓子を一つだけ買ってもらうのが最高の楽しみではあった。次回がいつになるかわからないから、買ってもらったポッキーやポテチをしけるほど大事に食べていたのは懐かしい。もちろんメタボという言葉は無縁。


中学校に上がって、月に使えるお小遣いは少し上がり、おやつに使えるお金の幅が広がったものの、本気でうまくなりたいと思ってサッカーをしていた私は、炭酸やお菓子の類を全て絶ち、母が作る晩御飯にも注文を入れるほど、食に関して減量中のOLよりはストイックな生活をしていた。


高校に上がると同時にストイックな生活は終焉を迎えはしたが、そこは放っておいても脂肪が勝手にエネルギーとなり体の外へ放出される魅惑の肉体の10代だったので、多分、人並みくらいおやつを食べはした。時には学校帰りにおやつとしてカツカレーを食べ、家で何食わぬ顔で晩御飯を食うという荒技を繰り出したこともあったが、メタボのめの字も知らなかった。


大学生になり、それはそれは不摂生を繰り返した。繰り返しはしたが、そこは暇な時間を持て余す大学生。週に3〜4日、ジョギング30分もしていたので、深夜日本酒片手にタバコ吸い、アテに鶏皮をカリカリに焼いたものを食べていても目も当てられないという事態になることは避けていた。それでも太りはしたが。


社会人になり、己で金を稼ぐようになったとたん、自由のきくお金が増えたこともあり、暴飲暴食がとまらなくなった。(一時期はお金が底をつき食うに困って前述のガリにはなったが)これが俗に言うストレスというやつだったのだろうか。自分で稼いで生活していく。結婚して所帯を持つのが良しとされる世の中とあらば、当時は彼女すらいない状態でも、将来に対する不安や仕事がストレスとなっていたに違いない。一応健康を意識した野菜中心の晩御飯を食べたあと、バラエティに富んだおやつの数々でお腹を満たす日々で、初めてメタボとなったぶよぶよのお腹に自己嫌悪を抱いたが、女子が私浮気するタイプだしと武勇伝のようによろしくないことを発言するかのように、俺こう見えてメタボちゃんだからと、ダメな感じで言えてしまう環境が育っている気がしてならない。


また、チョコはうまいしポテチもうまい、ふんわり名人シリーズにはアゴが外れるほどの衝撃をうけたし昔ながらのおかきも外せない。あらゆる角度から攻めて来るおやつ業界にあっぱれと言わざるを得ない。ジョギングを少しはしているが、それではおっついていないことが最近はっきりと目に見えてわかってきたけれど、天気が悪いとジョギングもできないし時間も限られるから数を増やすことはできず、まあ、ようは自分の甘えを何かのせいにして、なかなか抜け出せないメタボちゃんに悩んでいますって話です。それでは。